硝子越しに移る世界。
いつも無関係な世界だった。
だが、今はけして無関係ではなくなった。
ラインハルトにとって当たり前の日常とは……?

時計塔の上から街を見下ろした。
この時計塔は高いので見晴らしが良い。
そこが気に入っている。
街を見下ろすのは気分が良い。
目の前には何もない。
そこが特に気に入っているところだ。
「最近僕の周囲は慌しくなったなぁ……」
少し前まで、こんな事になるなんて思っても見なかった。
ずっとあの屋敷で暮らしていくんだと思っていた。
クルトが屋敷を出て行くって行った時、僕はどうしたんだっけ?
そんなに昔ではないはずだ。
クルトは行く場所が無かったからずっとあの屋敷で僕と一緒に暮らしていた。
クルトは僕たちと違って食事が必要だったから、母様の育てていた果実系や、僕が森から小動物を狩って来てあげたんだっけ。
何故、母様が食べれもしない果物を育てていたかというと、半分は趣味だ。
母様は花が好きだったからね。
もう半分は採った果物を使って果実酒を作った。
固形物は摂取できなくても、液体は摂取できるからね。
そんな理由で育てられていた果物をクルトにあげたんだ。
でも、僕たちには採ってきたものを与える事は出来ても食品を加工する事は出来なかった。
なにしろ吸血鬼だ。
そんなものは必要ない。
その為、誰も調理できないから最初はすんごく困った――
クルトは焦げてても中が生でもありがとうって言って食べてくれたっけ。
本音の塊のクルトだからけして美味しいとは言わなかったけど。
お世辞は言えないタイプだからね、クルトは……
それから僕たちが吸血鬼だから料理が出来ないってわかって、自分から料理するって言い始めたんだよね。
あんな小さい子供がそう言った時には、びっくりすると同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになったね。
僕たちが料理できないばっかりに、不味いもの食わせた挙句に自分で一から料理させるなんて。
でもクルトは嫌がんなかったな。
書庫から何故か出てきた料理の本とにらめっこしながら一生懸命作ってたっけ。
だから今クルトは料理が上手なんだよね。
生き抜くためには必要なスキルだったね。
周りが全く頼りにならなかったばっかりに。
文句を一つも言わないところは凄いよね。
あと僕がいろいろ魔術を教えようと思ったけどイマイチ能力的に錬金術しか合わなかったんだよね。
でも錬金術は楽しそうにやってたなぁ。
いろいろ作っては持ってきてくれたっけ。
…………
……………………
………………………………
一人で空を見上げてると感傷的になるね。
僕はそんなに年ではないはずなんだけど――
いつも見ていた空は硝子越しだった。
庭から見ていても、柵があるように思えた。
けして出る事の叶わない籠の鳥。
そんな感じがしていた。
だから自由に出入りできるクルトが羨ましいと思ったこともあった。
お祖母様は物凄く厳しい人だから、自由に外にはいけなかった。
行く必要も無かった。
興味が湧いたのはクルトが世界を見てくるといってこの屋敷を出たときからだった。
父親が出入りしていた時は気にならなかったのに……
僕にとって父親は、一番近いはずの他人だった。
僕の家族はお祖母様と母様だけだったから。
クロイツェル家は厳しい掟のおかげで、今も純血を保っている。
それと同時もこの掟のおかげで排他的になった。
それが父親を知らない理由。
父もわかっているのかあまり連絡をよこさなかった。
――――特に、母様が死んでからは……
父とクロイツェル家の縁が完全に切れたといっても良い。
僕は母様やお祖母様に似て金髪金眼だから父親とは似ても似つかない。
赤の他人だといわれても納得してしまうくらい、似ているところが全くなかった。
それで淋しいと思ったことは無かった。
最初から無いことが当たり前で、父親がいなくても母様やお祖母様がいたから平気だった。
それにクルトもいた。
クルトがいる生活は僕が思っている以上に楽しかったのかもしれない。
だから淋しいとか悲しいとかいう空虚感は無かった。
……最初から無かったんだと思う。空虚感なんて――
気が付かなければないのと同じだから…………
でも、それに気が付いたのはクルトがこの屋敷を出るようになってからだ。
それまで気が付かなかったいろいろなものに気付くようになったのは――
大事に育てられた。
それはそうだろう。
今では純血の吸血鬼はとても稀少だから。
特に、僕が魔眼を持っているとわかってからは特に大事に育てられた。
逆に言うと檻の中で大事に育てられた獣のようだ。
鳥のように無害ではない。
檻の中で牙を、爪を研ぎながら育てられた獣。
僕はそれと同じ。
だから僕は世界について何も知らなかった。
世界についても知識はあった。
屋敷には大量の書物があったから、それで識ることは出来た。
でも、世界が今どうなているかなんて知らない。
地図も見たことないのに、知るわけがなかった。
だから僕は世に言う世間知らずなんだと思う。
何も知らない。
知らされていなかったから……
でも、知ろうとしなければわかるはずもなかった。
それに長い間気付く事が出来なかった。
狭い世界で満足していた。
納得もしていた。
これが僕の世界だと認めてしまったら、それが現実になる。
クルトに会うまではそれで当たり前だった。
外に出てみようなんて考えもしなかったのは、全てに無関心だった証拠なのだろう。
実際、今考えてみると、クルトに会う前の僕は随分つまらない生活をしていたものだと思う。
気付いてしまったから、それに気付いてしまったから、もう…………戻れない。
知らなかった頃には戻れない。
「何してるの? ライン」
後ろから声をかけられた。
別に驚くことはない。
羽根音と魔力ですぐにクルトだとわかったし。
「少し昔を思い出してたんだ」
「昔?」
「そう、昔」
クルトは訝しげな表情で僕を見た。
「なんでまたそんな事してるの?」
「う~ん……僕の日常がめまぐるしく変わった所為かな」
「ああ、なるほど」
クルトはそれで納得したようだった。
「確かに、変わったね。ボク、ラインがあの屋敷から出てこれるとは思ってなかったもん」
「それは僕も思う」
あの屋敷から出る時が来るなんて思ってもみなかった。
「どうして出てこようと思ったの?
ラインはあまり外の世界に興味がないようだったから、出てこないと思っていたんだけど」
「そうだね。昔の僕にはそんなものなかったよ」
「…………」
クルトがマジマジと僕を見てくる。
「――いつから、興味がわくようになったの?」
「きっかけはクルトかな」
「ボク??」
意味がまったくわからなそうに眉を寄せた。
「クルトに会わなかったら僕は今でも硝子越しの世界を見ていたと思うよ」
そういうふうに育てられたからね。
「ボクはラインの役に立てたの?」
「当たり前じゃない? どうして?」
途端にクルトは黙った。
そして――
「迷惑ばかりを掛けたから……今も、迷惑ばかりを掛けていて…………何も変わっていないから…………ラインは優しいから、エルツェさんと同じで優しいから、ボクのわがままを何も言わずに聞いてくれていると……そう…………思ってた――」
「クルト…………」
「わがままばかり言うボクは、ラインにたくさんのものを貰いながらも、何も返せていないと、思ってた」
「はぁ……」
僕は思わず溜息を吐いた。
「馬鹿だなぁ、クルトは…………そんなことないのに」
「本当に?」
「本当だよ。僕はね、クルトが来てから楽しかったんだよ? 毎日いろいろなことをしでかしてくれるからね」
「うっ!! そ、それは――」
途端にクルトの言葉が詰まった。
いろいろと自分でもわかっているのだろう。
「屋敷の中で毎日迷子になっていたし、錬金術を使って爆発したり、料理を作るのに失敗して爆発したり……」
毎日飽きなかったな。
あの頃はクルトが唯一の娯楽だったから。
クルトには言えないけどね。
「それはあの屋敷が広くて特殊だからだよ! あの屋敷で迷わないラインがおかしい!」
「自分の家で迷ってどうするんだよ。規則性があるんだよ」
「うそっ!? 全然気が付かなかった……」
「だろうね」
だってクルトいつも騒いでたし、僕がすぐ助けに行ったから覚えようともしてなかったからな。
こんなところじゃ、寛げないって泣いてたっけ――
「それに錬金術は難しかったの!! ラインは錬金術使わないから本と格闘しながら一生懸命勉強したんだから!」
「だろうね」
僕は錬金術と相性が悪かったからね。本だけはあったからクルトに渡したんだけど。
「それに、料理だって…………誰も作れないから頑張ったんだよ」
「ごめん、そうだよね」
誰も料理しない割にはちゃんとあの屋敷には調理室と食堂はあるんだよね。
何の意味があるんだろう。
でもそのおかげでクルトは料理できたんだけど。
何度も調理室壊されたな。
でもその度に屋敷が頑張って修復してたけど。
こういう時に便利なんだよねぇ。
自力で直さなくて良いところが。
クルトには非常に不評だったけど。
「他にもいろいろあったけど、そういうのが楽しかったんだよ。クルトが来る前は何もなかったから」
「…………」
「あの頃は退屈とは思ってなかったけど、クルトにあってから退屈を知った」
「ボクと会って?」
「知らない事がたくさんあったんだ。今でも知らない事は多い」
「そうだね。ライン世間知らずだし」
「そう…………僕は何も知らなかった。知識はあっても、知らない事が多すぎた。
感情もその一つ」
「感情も?」
「そう。いろいろ知らなかったよ。悲しいとか、淋しいとか、楽しいとか、つまらないとか……」
何も知らなかった。
だからあの頃の僕は人形だった。
「『表情が動かなくて人形みたい』」
「――!?――
それは…………」
「そう、クルトが言ったんだ。でもそのとおりだと僕も思うよ」
しばらく一緒に過ごすようになってからクルトにそう言われた。
クルトはあの時まだ小さな子供だったから怖かったんだろうね。
「……でも、今は違うよ? 今は違うとボクは思うよ」
「ありがとう。でもこうなれたのはクルトのおかげだって僕は思ってるから」
じゃなければ、いつまでも人形のままだったと思う。
「…………ねぇ、ライン」
「何?」
「今、楽しい?」
まったく、クルトはいきなり何を聞くんだか――
「毎日ハラハラドキドキの連続で、退屈している暇もないよね」
僕は眼下を見下ろした。
「だから楽しいよ? 飽きないしね」
それは個性豊かなあの面子だからかもしれないけどね。
「そっか…………良かった」
クルトは嬉しそうに笑った。
「本当はイヤなんじゃないかと思ってたけど、そうじゃなくて安心した」
「面倒だったら仲良くしようなんて思わないと思うけど?」
「確かにそうだね」
眼下から派手な爆音が轟いた。
「やったかな?」
「どうだろう?」
今日はここから見える工場を襲撃。
僕はぼぉっっとそれを眺めていたんだよね。
そうしたらいろいろ考えちゃったわけだけど。
「さて、じゃあ見に行ってみようか」
「だね」
僕の日常は騒がしくなった。
でも、それがイヤじゃない。
だから、やっていけるんだと思う。