「ん〜、よく寝た。今何時だ?」
もぞもぞ動きつつ懐中時計を出して時間を確認すると、もうすでに昼を回っていた。
この環境でこれだけの長い間睡眠をとる事の出来る彼は大物だ。
……だが、まだ半分以上眠っている脳がこれを理解するのには多少の時間を必要とした。
彼は低血圧だった。
「ん〜、そういえば少年は……」
彼は腕の中にいる少年を見つめた。
昨日より血色が良い。
「平気そうだな」
彼は一安心すると紋章術で付けた焚き火を消し、魔法道具を回収した。
そして、外套に包まれている少年をそのまま背負った。
「さて、移動するか。それにしても…………どっちだ?」
辺りは一面真っ白。昨日来た道も降ってきた雪に埋もれて消えてしまっている。
「この少年の命に別状はなさそうだし、その内気がつくだろ。
それより問題なのは無事にここを出られるかって事の方だよな」
前途は多難だ。
それでも、彼は歩き出した。
――……なんだろう……あたたかい……
ぼくは……どうしたんだっけ…………?
…………なんか……じょうげにゆれているような……?
ゆっくりと眼を開けた。
その途端に視界が真っ白に染まる。
――……あ…………れ……?
ぼぉっとする頭をかしげた。
――め、あけたよね……
ああ、そうか……
よく見れば、視界を覆っているのは白銀に輝く髪だったのだ。
――きれい……
「お、気が付いたか?」
少年が少し動いたのに彼が気が付いた。
――この人が助けてくれたのだろうか……?
「はい」
「じゃあ、少しゆっくり話せる場所を作るか」
――ゆっくり話せる場所? ……作るって…………??
彼の言っている事の意味が解らず混乱する少年。そして、辺りを見回した。
そこは勿論銀世界。
「おろすぞ?」
「……あ、はい。わかりました」
先程からの会話の意味がよくわからない少年であったが、取り敢えず返事をした。
少年は青年の背中から降りた途端に、その勢いの所為で半分以上が埋まった。
「冷たい」
それは当たり前のことだろう。
「待っていろ。今、場所作るから」
少年には青年の言っている意味がやっぱりわからなかった。
不思議な顔をしている少年を全く気にしない青年は素早く印を結んだ。
…… ι γ θ σ π ι ε μ ε β μ α υ ε ζ μ α ν ν ε
ゆっくりと炎が集まって行く。
その炎は青年の周りにある雪を溶かしながら青年の手に収束していく。
青く燃える炎を球状にまとめると一気に前方に放った。
――
熱波によってかなりの範囲の雪が姿を消す。
一瞬にして辺りは水蒸気に包まれた。
この辺り周辺だけ綺麗さっぱりと雪は消え去っていた。
「凄い……雪が…………」
少年はぼぉっとその光景を見ていた。
「紋章術が使えるなんて凄いですね。滅多に使える人がいないのに……」
その言葉に青年は、
「……あ〜、確かに人間で使えるヤツって見たことないな」
少年の勘違いを訂正することなく言った。
「俺はクラウス=クルーグハルト。
お前は?」
「僕、……僕は…………」
その途端、急に少年は頭を抱えて蹲った。
「どうかしたのか?」
「あ……頭が…………」
少年が頭痛を訴えた。
「気が付いたばかりだからな。無理はするな」
「うう……」
少年は頭を抱えたまま動かない。
「おい、本当に平気か?」
動かなくなった少年を見て、さすがに心配になってくるクラウス。
「……………………ない……」
少年はぼそりと呟いた。
余りにも小さな声だった為にクラウスには聞こえなかった。
「ん?」
少年は悲痛な顔でクラウスを見上げた。
「……何も解らないんです! 自分の事が……名前も…………何をしていたのか…………どうしてここにいるのか…………」
「――!?――」
少年はクラウスに縋り付いた。
クラウスはどうするべきか一瞬迷ったが、腕の中の少年に尋ねた。
「そうか……でも、紋章術の事を知っていたな」
この少年は確かに紋章術の事を知っていた。では、全く何も知らないわけではないのかも知れない。ただ、自分の事が思い出せずに混乱してしまっている。
「あ……はい」
「他に何か覚えている事は?」
少しでも状況を把握しておく必要がある。
「あ……えっと……ん〜……」
少年はしばらく考えていたが、やがて――
「地名とか……世間の常識とかは……多分そんなに忘れてないと思います…………多分ですけど」
元々知っていた情報がどれほどあったのかわからないのだから、断定出来なくて当然だろう。
「人の名前は?」
少年はまたしばらく考えていたが、首を横に振った。
「……人の名前は…………何も……」
「そうか……お前が直接関わったであろう人の名前も覚えてないとなると…………やはり自分史か……」
クラウスはどうしたらいいかわからなくなっている少年の頭の上に手を置いた。
「でも、まだマシか」
「まし?」
少年はクラウスに縋り付いたまま顔だけ上を向いた。
「一人で生活が出来ない位すっぱり何もかも忘れてなくてさ。流石に生活出来ないとなると少し厄介だからな。お前にとってはどちらにしろあまりよくはないだろうがな」
「……そう……ですね」
少年ははかな気に微笑んだ。明らかに無理をしている。
――これはやばいな。身体的なものより精神的なものの方が余程質が悪い。
どれほどの傷が隠れているか知れないからな。
医者に見せて精密検査を受けさせないと。
「さて、そうなると名前何かは勿論わからないよな」
「……はい」
寂し気に下を向く少年の耳。顔色も暗い。
「さて、それじゃどうするか……」
一人何かを考え始めるクラウス。
「? あの……」
「俺が付けてもいいか?」
いきなりの事で何が言いたいのか解らない。
「だってこのままじゃ不便だし」
「何がですか」
クラウスの話には肝心の主語がない。
「何って……名前」
「あ……」
確かに今、少年には他人に呼ばれるべき呼称が存在しない。
「やっぱり嫌か?」
「そ、そうじゃないんですけど……」
「ん? 何だ?」
「どうしてそんなに親切にしてくださるんですか?」
見ず知らずの自分に構うクラウスの心境が少年には解らなかった。
「どうしてって……放って置けないからだろ?」
当たり前じゃないかとクラウスは言う。
「……………………」
少年は口ごもった。
「俺はそんなに薄情なヤツに見えるのか?」
苦笑しながら言った。
その言葉に慌て始める少年。
「い、いえ! そんな事は――」
「じっくり見てもそう言えるか?」
そう言われ口ごもる。
クラウスは癖のないさらさらの白銀に輝く髪をしている。そして少し切れ長の鋭いアイスブルーの瞳。
ぱっと見は目付きの鋭さのせいで恐く見える。
でも、雰囲気はそれほど恐いというわけではないし、よく見れば優しげな光を放っている瞳。
少なくとも少年には薄情で冷たい人には見えなかった。
そして少年はあることに気が付いた。
少し体が重いことに。
明らかに寒い地方で着るための外套を身に纏っている。それ自体には何の問題も無いのだが、これは明らかに自分のサイズにあっていない。
これでは引きずってしまう。
「あの……」
「結論が出た?」
「いえ。そうじゃなくて……この外套なんですけど」
「ん? それ? それがどうかしたのか?」
クラウスは内心気が付いたのかとひんやりとした。
だが、そうではなかった。
「僕のにしては大きいんですけど」
その言葉にクラウスはしばらく黙っていたが、やがて観念したように話した。
「……………………俺のだからな」
少年はその言葉に慌てた。
「返します!!」
外套を脱ごうとしていた少年は肩に手を置かれた。
「俺は防寒の術を使ってるから平気だ。それはお前が使え」
「でも!」
「お前のその格好では、この寒さには対応出来ない」
血に染まっていた外套を着ていた事は言えない。
少年はそれ以上その事については何も言わなかった。クラウスは何も聞かれなかった事に安堵した。
少年はクラウスの言葉に黙った。
少年がこの事に気が付かなければ何も話さなかったであろう事は明白だった。
「……優しい人ですね。少しだけ目付きが鋭いような気もするんですけど、そんな事は気にならないです。雰囲気も冷たいわけじゃ無いですし」
少年ははっきりとそう言った。
「はっきり言うヤツだな」
「え、あ! ゴメンなさい……」
少年の耳が下を向く。
解りやすい感情表現だ。
「いや、怒っているわけじゃ無い。むしろそういうヤツは好きだ。本性を隠している腹黒いヤツとか自分の意見も言えないようなようなヤツより余程良い」
「そうですか?」
「ああ。少なくとも後ろ向きな考え方しかしなかったり、しけった空気撒き散らされるよりはいい」
前を向いて歩けと言われた気がした。それは少年の錯覚ではないだろう。
「悩んでいてもしかたないですから」
「そうだな」
悩んでいても失った記憶は戻らない。
「で、名前は付けてもいいのか?」
「はい、よろしくお願いします」
クラウスは思案し始めた。
少年は自分を助けてくれたクラウスを見て疑問に思ったことを口にした。
「クラウスさんはどうしてこんな所にいるんですか? あの、仕事か何かでここに?」
普通の人間ならば、何の理由も無くこんな寒い所へなど来るはずがない。だから少年は不思議だった。
「いや、久しぶりの休暇だったから……」
その途端にばつの悪そうな顔をした。
「古代遺跡に行くはずだったんだが……道に迷った。本当は極寒の村テラスから南西にある古代遺跡サルヴィスに行くはずだった」
それを聞いた少年は気が付いた。ここがどこかも知らないということに。
「あの、ここはどこですか?」
「ここは
「……スノーラビリンス」
少年はその地名と由来に覚えがあった。
「だから出られなくて困ってるんだ」
クラウスは溜息を付いた。
「あの、僕が見て来ましょうか?」
少年には翼が生えている。
だから少年にしてみれば空から見渡す事など造作も無いことだった。
「空か……見えるか?」
「ん〜……やってみないと何とも言えませんね」
「じゃあ、頼む」
「はい」
少年はこのままでは飛べないので、外套を緩め背中から翼を出した。そして大きく広げ大地を蹴った。
ふわりと空に舞い上がる。
雲が掛かっていて暗い上に雪まで降っているために激しく視界が悪い。
少年は眼を懲らして辺りを見回した。
ぐるりと見回すと微かに森ではないモノが見えた。
――山かな……?
確か遺跡は山の麓にあったよね。
少年はあれが目指す目的地であると推測し、地面に降り立った。
「どうだった?」
「あちらの方に微かにですけど山が見えました」
少年は山の見えた方を指差した。
「山……ね。じゃあ、そっち行くか」
「はい」
少年は翼を外套にしまいながら返事をした。このままでは目立つ上に寒い。背中から入って来る凍てつくような冷気は体温を容赦無く奪っていく。
「あ、そうそう名前の事だけど」
「決まりました?」
「ああ。『クリスト』……なんてどうだ?」
「『クリスト』……?」
少年はそっと呟いた。
「ああ、聖族ゆかりの名だな」
言葉の響きとしても悪くはない。
「ありがとうございます」
少年は満面の笑みを浮かべた。
「ああ、それから俺がお前の身元引受人になるから」
「え?」
少年――クリストは聞き捨てならない言葉を聞いた。
「そうしないと、お前はどこにも行けないだろう」
今のご時世、身元不確定の者は国どころか町にすら入れない。村になら入れるかもしれないが、殆どの町や都市には入れないし、就職する事もままならない。勿論、生活の保障もされない。
「IDカードも持っていなかったのは痛かったな」
「すみません」
クリストは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「お前のせいじゃない」
「でも、僕はクラウスさんに迷惑を掛けてしまいます」
身元引受人になるということはその不審者の行動全ての責任を連帯するという事で何かあった場合、責任をとらされるのは身元引受人なのだ。それにそれなりの地位がなければ身元引受人にはなれない。
「ああ……それは平気だ。俺はこれでも国家公務員で身元確かだし、それなりに権力もあるから」
「……そうなんですか?」
「そ。だから気にするな」
気にするなと言われてもそういうわけにはいかない問題だ。
それに国家公務員にもいろいろ職種はあるはずだが、クラウスの言う限りではかなりの高官っぽい。
確かに紋章術を行使することが出来る位だから立場的に低い位置にいるはずはないだろう。
「お前は今日から記憶が戻るまでの間、”クリスト=クルーグハルト”だ。いいな?」
「はい、わかりました。あの、よろしくお願いします」
クリストはクラウスに頭を下げた。
「じゃ、そろそろ行くか」
クラウスはそう言うとクリストが山を見たという方向に向かって歩き始めた。