「随分と時間がかかったな」
「それは嫌味ですか?」
 やや憮然とした表情のエドウィン。
「三日も経ったぞ」
 クラウスはすでに仕事に忙殺されている。
「人間とか亜人ならすぐにわかったかもしれないんですけどね。種族不明ですし」
 エドウィンは肩をすくめる。
「……わからなかったのか?」
「ええ、薬品開発室からデータを貰ったんですけどね」
 それは余程のことだ。
「完全に未知の領域ですよ。血液や細胞の構成成分、DNAなども調べてみましたが、現在確認されているどの種族にも該当しませんでした」
 クリストは不安そうにしている。
「まぁ、それはおいおい話すとしますよ。クラウス執行吏も忙しいでしょうしね」
「そうしてくれると助かる」
 あまり長居すると仕事の鬼の補佐官に怒られる。
「クリストの記憶喪失の原因ですが、おそらく逆行性健忘症でしょう」
「逆行性健忘症……」
「ええ、なんらかの原因で多大なショックや衝撃になるような事を受けた場合、脳が人体を守る為にショックや衝撃を受けた前まで記憶を遡って忘却する現象です」
 それは防衛手段の一環だ。
「脳は、その記憶を封じることで守ろうとしたのか」
「はい」
「治るのか?」
「難しいですね。無理やり記憶を思い出させるわけにはいきませんからね。ショックや衝撃で忘れるということは余程の事がなければ起きない現象です。体が、精神を守る為に行った処置ですからね、無理やり呼起こせば精神崩壊を起こしかねません」
「クリストは忘れなければならないほどの目にあったと?」
「…………おそらくは」
 脳が受け止めるのを拒否した記憶。それはけして良いものではないだろう。
「忘れることが良いことだとは思わない。それは”逃げ”だから。逃げ続けても良いことなど何もない。結局、嫌なことは自分にまとわりついて離れない……忘れても逃げ切れない。本当に嫌なことは、絶対に、消えてなくなったりしないんだ。
 それに、解らなければ、対処も出来ないだろう?」
「それはそうですが、今すぐどうこうできる問題じゃないでしょう」
 彼のことは誰も知らないんですから、と。
「確かに」
 クリストはどうすればいいかわからずにいる。
「そのうち思い出すよ。心配するな。ちゃんと心が記憶を受け止められるようになれば、な」
「そう、ですね」
 暗い空気が立ち込める。
「クリスト、来い」
「え?」
 困惑するクリストを引きづるように救護課から連れ出すと、エレベーターに向かった。
 そしれそのまま乗り込むと五階に向かった。
 今日は生憎リュシアンとカインがそろっていないため、神殿に預けることが出来ない。
 そのため、とある人物にクリストの事を頼むことにしたのだ。
 クラウスがまっすぐに向かった先は謁見の間。
「失礼します」
 挨拶をしながらもずんずん進んでいくクラウス。
「おお、クラウス。今日はどうしたのじゃ?」
「クリストです」
 何を思ったのかクラウスは国王の前にクリストを突き出した。
「へ? あ、あの?? 
 あ! は、はじめまして、クリストです」
 クラウスの奇怪な行動に困惑したクリストはおろおろしつつも礼をした。
「おお、お前さんがクラウスが連れてきたという少年か」
「はい」
 クリストはがちがちに固まっていた。
「それで、今日は?」
「検査が終わりました。それで私は忙しく面倒を見てあげられないのです。なので、陛下にクリストの気分転換をしていただきたく参りました」
「ええ〜〜〜〜!?」
 その言葉に驚いたのは国王ではなくクリストの方だった。
 あまりのことにケープがずり落ち、隠していた翼が露わになる。翼はあまりの衝撃によってか羽の一本一本が逆立っている。
「おお、変わった少年じゃな」
 始めてみる種族という意味あいの言葉だろう。
「クラウスさん!! なんてこと言うんですか!」
「冗談で陛下のところまで来る訳ないだろう」
 いくらなんでもそんなことをするのは失礼だろう。
 クリストは本気で頭痛がした。
 他の人ならまだしも、よりによって国王にそんなことを言うのだ。
 思わずクラウスの常識を疑った。
「もっと悪いです」
「まあ、そう言うな」
 それを制したのは以外にも国王だった。
「で、ですが……」
「わしも気分転換ぐらいしたいものじゃ。毎日仕事でな」
 優しく笑いながらクリストの頭を撫でた。
「今日一日でいいので気分転換をしてあげてください」
「うむ。わしも楽しませてもらおう」
「ではよろしくお願いします」
 クリストが口を挟む間もなく、勝手に話は決まった。
 クラウスはクリストを残すと風のように去っていった。
「あ……クラウスさん……」
 そこにはどうすればいいのかわからなくて困り果てているクリストが残された。





 ピーピー。
 通信機が鳴った。
「はい、クラウス=クルーグハルトだ」
『クラウス執行吏、エドウィン=ルザ=イーゼルです』
 通信してきたのはさっき別れたエドウィンからだった。
『クリストの事で早急にお話があります。お時間はよろしいでしょうか?』
 わざわざ連絡してきたのはクリストには聞かせたくない話があるからだろう。
 帰ったらロキに怒られるだろうな〜と思いながらも返事をする。
「今から行く」
『了解しました』
 ぷつりと通信が切れる。
 急いで救護課に戻った。
 勿論、ロキに遅くなると一言連絡を入れてから。
 通信機の向こうから怒りのオーラを感じたのは気のせいではないはずだ。

 


 クリストには悪いが残業は決定した。
 国王と一緒なのだから食事に困ることはないだろう。
「どこまでわかった?」
 着いた早々に話を切り出す。
 一分一秒も無駄には出来ない。
「今現在登録されているどの種族にも該当しなかった事は先程にも申し上げましたが……」
「何かあったのか?」
「一つ、随分と特徴的な細胞が見つかりました」
「特徴的な細胞?」
「はい。今まで天翼(アウィス)族にしか発見されていない細胞です」
天翼(アウィス)族というと、ラインヴァン卿か……」
 天翼(アウィス)族で友好的なのはあのフェネシス=ラインヴァンだけだろう。他の天翼(アウィス)族は他種族と馴れ合いはしない。
「それからその他にも天翼(アウィス)族と似たような細胞が多数……」
「同じではないのか?」
「似ているだけです。全く同じというわけではありません」
 フェネシスなら何か知っているかもしれない。
 後で連絡を取ってみようとクラウスは思った。
「他には?」
「クリストの記憶のことですか……」
「何か手がかりでも?」
「血を見た途端に半狂乱になって――」
「暴れたのか?」
「はい。突然」
 良く見れば薬品棚が一つ減っている。
「怪我はなかったのが幸いです」
「本人は……?」
「覚えていないでしょう」
 そんな事をしたと覚えていたらクリストのことだから落ち込んだりするだろう。
「話さない方が賢明だと思われます」
「そうだな」
「記憶を戻すにしても、慎重になった方がよろしいかと」
「…………血、か……」
 思い出すのは血塗れの外套。
「ええ、あれだけ過敏に反応したということはトラウマとして脳に、体に刻み込まれています。おそらく、封印してしまった記憶に関係しているんでしょう」
 クリストの封じられた記憶に眠っているものは……
「……重いな」
「……そうですね」





「あの、国王様、どこに向かっているんですか?」
「屋上じゃ」
 クリストは国王と一緒にエレベーターに乗っていた。
「屋上に行けるんですか?」
「うむ。あまり人はいかんがな。王族以外であそこに行った事があるのは三賢者と斎宮と大司教ぐらいのものじゃろう」
 斎宮と大司教というと、クリストの面倒を見てくれた人たちだ。
「リュシアンさんとカインさんですね」
「おお、知っておるのか」
「はい、クラウスさんが仕事で忙しいので代わりに僕の面倒を見てくれたんです」
「なるほどのう。あの二人ならば可能じゃな」
 そして程なく目的地に着く。
 そこは、水上都市グラッズヘイムが見渡せる展望台だった。
「凄い」
 思わず息を飲んだ。
 とても美しい景色だった。
 クリストはしばらく景色に見入った。
「ここに来るのも久しぶりじゃ」
 クリストの隣に立って景色を見渡す。
「心が和むじゃろう?」
「はい」
「君に何があったかなどわしにはわからん。だが、そう悲観したものないじゃろう?」
「そう……ですか?」
「君が何故、記憶を失ったのかはわしにはわからん。わしどころかクラウスにも、エドウィンにもわからないだろう」
 自分に解らない事が他人に解るはずがないだろう。
 何せ、初対面なのだから。
「僕はどうしたらいいんだろう」
 クリストは景色を見ながら空虚な顔で呟いた。
「この世に必要ないものなど存在しない」
「え?」
「出会いも別れも……今あるこの現象でさえ……必要なことだと、わしは思う」
「必要……な…………こ……と……?」
 そんなこと、考えたことすらなかった。
「世界はきっと、君を助けてくれる。これは君の試練なのかもしれんのう」
「……………………」
「君は一人ではない。だから平気じゃ」
 今、自分の周りにはたくさんの人がいる。
「お主のまわりにはお主を助けてくれるものたちがちゃんといるだろう。たとえ、偶然の出会いだとしても、ただも気紛れだったとしても、今、ちゃんと心配して面倒を見てくれている。だから大丈夫じゃ」
 最初からわかっていたつもりだった――
 クラウスなら自分の力になってくれると――
 名前をくれ、姓までわけてくれて、その上身元引受人になってくれた――
 これで自分が何かをすれば、責任を取らされるのはクラウスなのに――
 自分の正体如何によっては、たとえ何もしてなくても、連れてきたというだけで責任問題になるかもしれないのに――
 それがわかっているのに、助けてくれた――
 だから、一人ではないとわかっているつもりだった――
 でも、やはり、自分が何者かもわからない――
 種族ですらわからない――
 自分は誰とも違う――
 同じ人などいない――
 その事実が、痛かった――
 地に足が着いていないような錯覚と不安に襲われる――
「…………わかっている……つもりでした……
 ――でも、わかってなかったみたいです…………」
 涙が零れてくる。
 一人ではないと教えてくれた。
 頼って良いのだと、言われた気がした。
「迷ったり、不安になったりしたときにはまたここに来るといい。きっと心の影を払ってくれる」
「…………はい。ありがとうございます」
 クリストは思う。
 自分の正体が、せめて誰の迷惑にもならない存在であれば良い。
 誰かを傷つけるのは……嫌だから……