第二十三月[魔の月]二日、朝の九時。
 その知らせは宮殿内を騒然とさせた。
「浮遊島が落ちてきた!?」
 クラウスは思わず椅子から立ち上がった。
「幸いにもわが国の領地ではありませんでしたし、運の良いことに人里に落ちたわけでもありません」
 ロキは淡々と今届いたばかりの情報を伝えた。
「落下地点は?」
法治国(ほうちこく)ミズガルドの南部平原ニザヴェリル、静寂の村ロートクの近くです」
「そうか、それは良かった」
 人里に落ちなかったことに安堵し、椅子に座りなおすクラウス。
「ですが、一歩間違えばロートクはありませんでした。何しろ南部平原とほぼ同じくらいの大きさの大陸が落ちてきたのですから」
「まさか……浮遊島の一つが丸々落ちてきたのか?」
「その可能性は高いですね。法治国(ほうちこく)ミズガルドでは直ちに調査を開始するそうですが、我々はいかがいたしましょうか?」
 その言葉にクラウスが怪訝な顔をする。
「他国のことにあまり口出しは出来ないだろう?」
「ええ、そうです。ですが落下地点には魔物がたくさん集まり、人を襲っているそうです。このままでは被害が広がる恐れがあります」
 静寂の村ロートクは確か人間によって作られた村だったはずだ。
「…………法治国(ほうちこく)ミズガルドから何も言ってこない以上は勝手に調査は出来ない」
「そういうと思っていましたよ。確かに、組織としては動けませんね」
 ロキはすっと肩をすくめた。
「それが何を意味しているかわからないお前ではないだろう?」
「ええ、勿論わかっていますよ。ですが、このままでは良くないことが次々と起こるような気がします。今回は偶然、さほどの被害は出ませんでした。ですが、次また落ちてきたときは大都市に落下するかもしれません。このまま見過ごすわけには行かないでしょう?」
「それは、たしかにそうかもしれないが……」
「何かがあってからでは遅いということもわかっていますよね」
 矢継ぎ早に繰り出される言葉……それは確かに正論だ。
 クラウスとて気にならないわけがない。
「じゃあ、誰か派遣して調べてみるか」
 誰にしようか考え始めるクラウスにロキはきっぱりと言い放った。
「魔物の巣窟に誰を派遣しようというのです?」
 魔物と戦闘できる人材はアスガルドにはわりと揃っている。
 司令部の者はそれなりに訓練を受けているが、それは少数の魔物と戦うものだ。
 魔物の巣窟で戦えるほどの戦闘力を持っているものはそうはいない。
「……う〜ん。それが問題だよな」
「魔族まで出るかもしれないんですよ」
「魔族か……」
 ロキはさらに痛いところをついてきた。
 執行部には術者が多くそれには適任だが、今は忙しくて人員を割けない。
 それに軍人がごろごろしている司令部と違って執行部は少数精鋭だ。
 その中で魔族を軽くあしらえる者は限られてくる。
 魔族の撃退なんて隊長クラスじゃないと明らかに無理だ。それも亜人であることも求められる。
「捜査に行ける人間は限られてきますが」
 クラウスはロキの言わんとしている事がわかってしまった。
「……年も暮れで忙しいよな?」
 念のため確認してみる。
「そうですね」
 淡々とした答えが返ってきた。
「それでもいいのか?」
「異常の原因が判ると言うならば安いものです」
 ――それがロキの答えだった。
「……迷惑掛けるな」
 クラウスはこの前休みをまとめ取りしたばっかりだ。
 だが、クラウスは次の瞬間自身の耳を疑った。
「誰にでも自由に行動する権利はあります」
「……ロキ……?」
 仕事の鬼のロキからそんな言葉が出るとは思っていなかったからだ。
「貴方が自由を望んでも、誰も責める事など出来ません」
「……」
 でも……それはロキがずっと思っていたことだった。
「わがままを言ってもいいのですよ」
 それは……犯してしまった罪を償おうとしている者の表情だった。
「そんなことをすればみんなに迷惑がかかる!」
 ロキの言おうとしていることは……それを実行することがどれだけ周りに影響を与えるか、頭の良いクラウスにはイヤと言うほど解っていた。
「優しいですね、貴方は。貴方に迷惑を掛け続けているのは我々なのに――」
「違う! ロキの所為じゃない!!」
 頭の中によみがえる、おぞましいほどの記憶。
 それは今でもクラウスを縛り付けている。
 望んでも、けして手に入らない…………願い。
 それを、ロキは思い出させるように紡ぐ。
 もう、諦めていたものを――
「でも、貴方を助けられなかったのは事実です」
 それはロキの心の中にずっとしこりのようにあるけして消える事のない罪悪感。
「…………でも……俺は…………結局助けられた………………その恩も返していないのに……」
 感謝してもしきれないほどの恩……
 けして無碍には出来ない。
 今の自分を形作るもの……
「もう十分ですよ。だから無理をしないでください」
 その優しさが痛い。
 自分は……返せているだろうか?
「…………ありがとう。でも俺はここにいるよ。まだ――」
 ――とても返せているようには思えない。
 それが、クラウスの想い。
「……そうですか」
 ロキはなんとも言えない表情をしていた。
 残念なような、安心したような、そんな顔。
「でも、少しだけ……留守を頼みたい」
 それがクラウスのわがまま。
「承知いたしました。ですが、お一人では荷が重過ぎるかと思いますが?」
「……?……俺はそう簡単にやられたりしない」
 その言葉にクラウスは怪訝な顔をした。そんな事はロキもわかっているはずだ。
 自分の幼少時代を知っているロキなら……
「お一人で行かれるならば心配はいたしません」
「…………そんな危険な場所に誰を連れて行くって言うんだ?」
 クラウスには心当たりがなかった。
「そうですか……てっきりクリストを連れて行くものと思っていましたが、違うのですか?」
「クリストを……?」
 それはクラウスが思ってもいなかった人物だった。
「ええ、記憶に関する手がかりが見つかるかもしれないでしょう? 何しろ、浮遊島ですからね」
「…………そうか……確かに…………そうかもしれないな……」
 クラウスは渋い顔をした。
 危険すぎる。
 それに、血に恐怖感を抱いているというクリストを連れて行くのはかなり危険だ。
 魔物相手ならともかく、魔族相手に無傷で勝てるとは思っていない。
 それに、魔物といえども数が多くなれば怪我をする確立も増える。
 血を見たクリストがどんな反応をするのかわからないが、それはあまりにもリスクが高い。
「どうなさいますか?」
「そうだな………………接近戦が得意で年内に有休が残ってるそれなりに強い人物かな」
 結局、連れて行くことにした。
 そうしなければいけないような気がした。
 それに、ロキの言うことも一理ある。
 関係があるかもしれない。
 なにしろクリストは、足跡の全くない雪の中に埋もれるようにして居たのだから。
「では手配しておきますので、準備でもなさって来たらどうですか?」
「うん。そうする」
 クラウスは席から立ち上がり、部屋から出ようとした。
「ああ、それと――」
 それをロキが止める。
「何?」
「クラウス執行吏は有休を全て消化済みなので仕事をなさってきてください」
 それはやはりロキだった。
 全く容赦がない。
 さっきはとても殊勝に見えたのに……
「…………わかってるよ」
 クラウスはこれ以外に答える術を持っていなかった。





 クラウスは水上宮殿グラッズヘイムを出て、蒼天神殿ヒミンヴァンガルに来ていた。
 蒼天神殿ヒミンヴァンガルは水の神を祀る神殿だ。
 勿論、道にさんざん迷ってから。
 クラウスが道に迷わないで歩けるところなどない。
 それはクラウス自身に問題があるのではなく、クラウスの持っている有り余る力を一部封印しているために起きた歪みの所為だ。
 それはクラウスだけがしていることではなく、聖族としては当たり前の行為だった。
 聖族は精神力が高いので大抵の人は封印を施している。
 ただ、この封印はなんらかの影響を術者に引き起こす。
 クラウスの場合、方向感覚に現れた。
 そのため、封印を解いている時は道に迷ったりはしないらしい。
 クラウスのように実害のある影響と、全く実害のないものがある。
 たとえば、クラウスの幼馴染であるアウグストだ。
 彼の場合は瞳に現れた。
 左の目が影響を受け青く染まったのだ。
 勿論封印を解除すれば元の緑色に戻る。
 クラウスもなんで無害な影響でなかったのかと苦い思いをしているが、こればっかりは自分ではどうにもならないことなので仕方がない。
 なんとか道に迷いつつも昼前には着くことが出来た。
 クリストはクラウスが仕事をしている間ここで預かって貰っている。
 クリストに会うためには必要なことだった。
「あれ、クラウスさんじゃない。珍しいね。こんな時間にいるなんて……」
 礼拝堂にいた四翼を持った青年が話しかけてきた。
 彼はカイン=ファーレンホルスト。この蒼天神殿ヒミンヴァンガルのトップ、大司教である。
「ああ、ちょっと不測の事態が起きてね。お許しを貰ったんだ」
「……何かあったの?」
「実は――」
 クラウスは浮遊島が落ちてきた事を掻い摘んで伝えた。
「うそ!! そんなことが!?」
 カインは信じられないという顔でクラウスの話を聞いていた。
 だが、取り乱しているようには全く見えない。
 流石に大司教をしているだけのことはある。
「それでロキに許可を貰ったから見に行くところ」
「そうなんですか。クリストはどうするんですか?」
 何気ないカインの一言。
 クラウスは一瞬言葉に詰まった。
 連れて行かなければいけない気がするのに、どこかで嫌な予感もする。
 でも、このままでいることが良いことだとは思わない。
「一緒に連れて行こうと思って……」
「大丈夫ですか?」
 不安そうな顔をしている。
 カインは小さな子供が大好きだから、純粋に心配しているのだろう。
「うん。ロキが一人連れを選んでくれるから」
 ロキなら適格な人材を捜し当てるだろう。
「そうですか」
「ところでクリストは?」
 クラウスはクリストが普段何をしているのかは余り知らない。
 カインやアベル、リュシアンと一緒に何かの手伝いをしているそうだが、そういう話を余りしないからだ。クリストとはつい記憶に関する常識力や地理などの話をしてしまう。
 周囲を見回したが、神官以外はいない。
 奥にいるのかとも思ったが、あの二人を手伝っているならいないかもしれない。
「アベルとリュシアンと一緒に孤児院の子供達の面倒を見てくれてるよ」
 そんなクラウスの疑問にカインはさらっと答えた。
「子供達の?」
 クリストはおそらく実年齢では十分大人だろうが、見た目は子供だ。とても子供の世話が出来るようには見えない。
 一緒に遊んでいるのかとクラウスは疑問に思う。
「うん。子供達もね、なんか懐いてるんだ。優しいオーラが出てるからかもね」
「……そうなのか?」
「うん。子供達はそういうのに敏感だからね」
「ふ〜ん」
 クラウスはカインの話を聞いて、クリストはやはり悪いものではないのかもしれないと期待を抱いた。
「じゃあ案内するね。クラウスさんは孤児院には行った事ないでしょ」
「ああ」
「それに、一人じゃ辿り着けないだろうしね」
「……」
 クラウスはその言葉に何もいえなかった。





「ここが孤児院です」
 孤児院は神殿内の一角に立てられている。
「へぇ〜、ここが」
 想像していたより大きくて立派な建物だった。
 税金で建てた割には立派だな〜とクラウスが思っていると――
「クラウス様ー!!」
 聞き覚えのある声が響く。
 声の主の方に体を向けようとした瞬間、その衝撃はやってきた。
 がん、と良い音をして頭を地面にぶつける。
 クラウスはここが庭園で本当に良かったと思った。
 大理石だったら昏倒したかもしれない。
「はぁ……」
 思わず溜息が出る。
 彼女は動く気がないらしい。
 人を押し倒しておいて、このままでいる気なのだろうか?
「……リュシアン」
「はい」
 なんか物凄く嬉しそうだ。
「クラウス様が仕事を抜け出してまで逢いに来てくださるとは思っていませんでしたわ」
 クラウスは一瞬気が遠くなりかけた。
 どうして彼女はいつもこうなのだろうか?
「すまないがリュシアンと遊んでいる暇はないんだ」
 だから退いてくれと頼むと、かなりしぶしぶといった感じでリュシアンはクラウスの上から退いた。
「クラウス様、冷たいです」
 しゅん、としているが実際そんな暇はないので勘弁して欲しい。
「そうだよ。なんか大変な事になっているみたいだからね」
「何かあったのか?」
 そう言ってリュシアンの後ろから現れたのはカインと色彩こそ対照的だが全く同じ顔。
 色が一緒だったら区別がつかなかっただろうと言われるカインの溺愛している弟、アベル=ファーレンホルスト。
 アベルはカインの補佐をしている。
 別々にいるなんて珍しいとクラウスは思った。
 クラウスの中ではこの二人、二人で一つだった。
 カインは壮絶なブラコンだが、アベルもその気があるらしく、兄弟喧嘩もなく毎日平和だ。
 これでアベルが常識人だったら間違いなく、カインに鬱陶しいと言っていることだろう。
 そんなこと言われたら間違いなくカインは使い物にならなくなるが。
 だからちょうど良いと思われる二人の関係。
 ちょっと性格が軽めのカイン。
 そのカインはまるで世間話をするかのような軽さで言った。
「浮遊島が落ちたらしいよ」

 


 余りにも軽い物言いだった為、言葉を理解するのにしばらくの時間を有した。
「……そんな……まさか――」
「あの……浮遊島が……?」
 二人はクラウスを同時に見た。
 カインの新手のギャグでないと、二人は言い切れなかったからだ。
「うん。本当だよ。だから調べに行こうと思って――」
 これがカインだけだったら二人は信じなかっただろう。
 だが、クラウスは冗談は言わない性質だ。
 理解したと同時に衝撃が走る。
「何やら大変なことになっているな」
 黙りこむ一同。
 事の深刻さに何もいえない。
 遠くから子供達の声が聞こえる。
「ところでクリストは?」
 クラウスは当初の目的を口にした。
 元々ここにはクリストを迎えに来たのだ。
 いつまでも暗い気持ちでここにいるわけにはいかない。
「奥で子供達と一緒に遊んでおりますわ」
「呼んできてくれるか?」
「ああ」
 アベルはそう返事をすると踵を返してクリストのもとに向かった。
「不吉な……イヤな予感がします。お気をつけください、クラウス様」
 リュシアンの言葉にクラウスははっとした。
「……リュシアンも……?」
「え……? ではクラウス様も?」
 二人は頷きあった。
「これは間違いなく、遠くない未来に何かが起きるね」
 能天気なカインの声が痛く心に刺さった。
 イヤな沈黙が場を支配しかけた時――
「クラウスさん。どうかしたんですか?」
 アベルに連れられてクリストがやってきた。
 クラウスは気を取り直して振り向いた。
「出かけるぞ」
 ……先延ばしには出来ない。
「ふぇ? どこにですか?」
 アベルは本当に呼んできただけなのだろう。クリストはわけがわからないといった感じだ。
「法治国ミズガルドだ」
「……? なんで僕まで?」
 一緒に行っても邪魔になるだけだろうにとクリストは首をかしげる。
 仕事についていくような立場でもない。
 そう思っていたクリストは次の言葉に衝撃を受けて動けなくなった。
「今日未明、法治国(ほうちこく)ミズガルドの南部平原に浮遊島が一つ……落下した」
「え……?」
「これから、調査に行く」