次の日。
 朝食までしっかりと戴いたクラウス達は件の落下地点に向けて出発した。
 そして眼前に広がるのは、巨大な崖のようなものがいくつも連なった光景だった。
 それ以外はよくわからない。
 ここからでは距離があって建物までは見えないし、樹の生えている様子も窺えない。
 だがそれは凄い迫力だった。
 それを目にしたクラウスは足を止めた。
「どうかしたの? クラウス執行吏」
 ルーファスも足を止めた。
 クラウスの様子では感銘を受けたとか圧倒されたといった感じではない。
 まぁ……感銘を受けるような素晴らしい光景ではないし、むしろ魔物の巣窟なのだが……
「物凄く嫌な気配がする。あそこにいる魔物…………数が半端じゃない……」
 何時になく神妙な顔をしているクラウス。
「そんなに?」
 ルーファスは感じないらしく、目を凝らして目の前の光景を見る。
「俺はそんな冗談は言わない。ラルフじゃあるまいし」
 あはは、と渇いた笑いで返すしかなかった。確かにラルフならやりかねない。
「我が半身にして我が力の礎――
 我が前にその身を現せ――
 <蒼き珠の聖杖レヴァンテイン>!!」
 クラウスはこれから起こるであろう過酷な戦いのために杖を喚んだ。
 それを見たクリストは純粋に驚いていた。
「クラウスさんも精神力増強アイテムを使うんですね」
「…………いくら俺でも手ぶらってことはない」
 やや心外だといった顔をする。
「でも凄いです。古代精神感応具(アルト=ゼーレ=レゾナンツ)と主従関係を結べるなんて――」
「何それ?」
 紋章術が全く解らないルーファスには何の事かさっぱりだった。
「簡単に言うとこの杖自体に精霊みたいな意志を持ったモノが宿っていて自ら主と選ぶんだ。強い力を持った古代精神感応具(アルト=ゼーレ=レゾナンツ)は気難しくて気に入られないと触ることすら出来ない」
 クラウスの言葉に呼応するかのように杖に填め込まれている蒼い宝珠がうっすらと淡い光を放つ。
「話せるんですか?」
「ああ。でも無口だから余り喋らないな」
「そうなんですか」
 いかにも当たり前のように会話をしているのでうっかり流しそうになったが、明らかに今の会話はおかしかった。
「杖が…………喋るんですか?」
「ああ。魂が宿ってるんだから当たり前だろう」
 なぁ、と杖に語りかけるクラウス。
 宝珠がまたうっすらと輝き、コエが聞こえた。
《我、高潔デ純然タル我ガ主ニ従ウモノ也》
「うわっ! ホントに喋った!!」
 驚くルーファスを他所にクリストはレヴァンテインに挨拶をする。
「こんにちは。貴方は聖杖なんですか?」
《ウム。我、陽ノ力ヲ司ルモノ也》
 話すたびに蒼い宝珠が淡くゆっくりと明滅する。
「じゃあクラウスさんの属性は陽なんですか?…………ん?……あれ……………………でも――」
 言っておきながらクリストは何かを思い出したのが不思議そうな顔をした。
「俺の属性は陰だぞ」
 その疑問に答えるようにクラウスは言った。
「どうして自分の属性よりの方にしないんですか?」
 普通は自分の主属性のある属性のモノを選ぶはずだ。
 その問いにクラウスは歯切れ悪く答える。
「あー……まぁ…………昔は力を貸してもらってたんだけど…………その………………今はちょっと使えなくて――」
 一度主として認めた相手には生涯尽くすのが古代精神感応具(アルト=ゼーレ=レゾナンツ)だ。何故使えないのか……クリストは疑問に思ったがそれ以上は突っ込まなかった。
「なんか近づくにつれてヤバ気な空気が――」
「それだけ魔物がいるって事だ」
 なんとなくあの場所が禍々しく暗いような気がしてくる。
「クリスト。俺から離れるなよ」
「はい」
 さっきより慎重に歩き始めた。





 ぴた。
「いますね」
 獣のような唸り声が聞こえる。
「ここから戦場だな」
 ルーファスは剣を抜き構える。
 クラウスも鋭い眼差しで周囲を警戒する。
 物陰から黒い影が飛び出してくる。
 クラウスはクリストを掴むと後方に跳んだ。
 ザシュ――
 ルーファスが突っ込んできた影に向かって剣を振り上げた。
 赤黒い血が飛び散る。
 傷を付けられた事でバランスを崩し大地に突っ込む魔物。
 グゥゥ…………
 低い唸り声を上げ、ルーファスの方に向き直る。
 傷は浅かったようだ。
 この魔物の出現を機に周囲に気配が満ちる。
「囲まれたな」
 ちっと舌打ちすると魔物を攻撃すべく印を組む。

   ……  ε ι ξ ε ε ς σ γ θ ε ι ξ υ ξ η ε ι ξ ε ς μ ε β ε ξ δ ε ξ π ε ς σ ο ξ τ α ξ ø τ ø υ ε ι ξ ε ν τ α ξ ø ζ υ ς χ ι ξ δ

 風が止んだ。

 


 動かなくなった大気を一時的に支配する。
 ルーファスは嫌な予感がしてクラウスのいる方に跳んだ。
 その直後、術が完成する。
   ――春風に踊る精霊の舞い


 クラウスを中心にして周囲に荒れ狂う嵐が発生する。
 容赦の無い風の渦は周囲にいた魔物を空に舞いあげた。
 ルーファスは顔を引き攣らせた。
 あと少し外側にいたら一緒に空を飛んでいたところだった。
 一言文句を言いたくてクラウスの方に向き直る。
 だがクラウスは更に印を組んでいる。

   ……  ι γ θ τ ς α η ε δ ι ε ζ μ α ν ν ε ξ δ ε ς θ ο μ μ ε υ ξ δ ε ι ξ δ ς α γ θ ε ξ δ ε ς ζ μ α ν ν ε ε ς β ς ι γ θ τ ζ μ α ν ν ε φ ο ξ ι ξ τ ε ξ σ ι φ ε ν α ς η ε ς
 
 非常に長い印だ。
 これでは声を掛けられない。
 黙ってクラウスを見つめるルーファス。
 紋章術は強力な術ほど印が長い。
 ぼぉ!
 クラウスの周囲に炎が現れた。
 その炎は杖の先端の宝珠のあるところに収束していく。
   ――業火を(まと)炎竜(えんりゅう)の怒り


 収束した炎を空に解き放つ。
 何で空に向かって放ったのかといぶかしんでいたルーファスだったが、理由はすぐに判明した。
 魔物が落ちてきたのだ。
 後ろに跳んで間一髪で避ける。
 何者も自然の法則には逆らえない。
 風が収まった途端に魔物は重力に従い落下したのだ。
 それを攻撃する為の紋章術だった。
 激しく地面に打ち付けられ、身動きが出来ないでいる魔物をルーファスが次々と斬りつける。
 そしてクラウスはクリストの手を掴むと先へ進んだ。
 全ての魔物の息の根を止めたルーファスも周囲を警戒しながら続く。
 だが魔物の群は更に襲い掛かってきた。
 数が半端じゃない。
 クラウスは魔物を迎え撃つべく印を組む。
 ルーファスも襲い掛かる魔物を次々と斬り倒していく。
 まだ浮遊島ではないというのにこれほどの数の魔物がいる。
 ミズガルドの軍部が見捨てるはずだ。
 彼等では手に負えないだろう。
 クラウスとルーファスは浮遊島のある場所までひたすら魔物を倒し続けた。





「やっと近くまで来れたな」
 浮遊島の近くまで来ると魔物の群は見えなくなった。
 ここら一体にいた魔物は粗方倒したらしい。
 勿論粗方倒したのはクラウスだ。
 あれだけ紋章術を連発しているというのに疲れた様子を一切見せない。
 クラウスはかなり精神力が高いようだ。
 ルーファスは崖を見上げてその高さに圧倒された。
「どうやってこの崖を上るんですか?」
 崖の高さはざっと三十ウェールはある。
 登れるような高さじゃない。
 それに対するクラウスの返答は実にあっさりしたものだった。
「飛んで行くに決まってるだろう」
 それを聞いたクリストは背中から純白の翼を出した。
 それを見たルーファスは気付く。
 飛べないのが自分だけだという事に……
 クラウスは勿論飛べるだろう。紋章術があるのだから――
「オレはどうすれば……?」
 ルーファスは困ったような表情をしてクラウスを見つめた。
「そんな事心配しなくても俺が運んでやるよ」
 そう言ってクラウスは印を組んだ。

   ……  ε ι ξ ζ μ υ η ε μ ε ι ξ ε σ ε ξ η ε μ σ μ ι ε β τ ε ι ν θ ι ν ν ε μ σ η ε χ ο μ β ε

 クラウスを包み込むように薄紫色の光が現れる。
   ――空に愛されし天使の翼


 クラウスの背にその光が収束していき、薄紫色をした光の翼が生えた。
 一人用の浮遊の紋章術だ。
 精神力が足りないと維持していくのも大変な代物だが、一人用なのでこれでもランクはC。
「クリスト、俺の後から来るんだ。いいな?」
「はい」
 周囲に飛行型の魔物がいない事を確認するとルーファスの手を掴み空に舞い上がる。
 もう少しなんとかならないのかとルーファスは思った。
 冷や汗が出てくる。
 クラウスが軽快に飛んで行く後をクリストが用心しながらついて行く。
 ルーファスは顔が引き攣るのを感じた。
 かなりの速さで地面が遠のいていく。
 地に足が着かず、空を切る足。
 見っとも無く叫びそうになったが、そんな事をすれば魔物を呼び寄せてしまう。
 それだけは避けなければならない。
 ――というかそんな事をすればクラウスに怒られるし、クリストも自分も危険に晒される。
 下を見てはいけないと自分に言い聞かせる。
 そうしなければ意識が飛びそうだった。
 そして崖の上に到着すると、すっと足のつく感触にほっとする。
 その後にようやく周りを見渡す余裕が出来た。
 そして気付く。
 クラウスとクリストが固い表情をしている事に。
 ルーファスも二人の見ている方向に目を向けた。
 そこには――
 思わず目を覆いたくなるような光景が広がっていた。