「酷いな……これは…………」
 建物は落下の衝撃で崩れてぼろぼろだ。
 瓦礫の山が所々に見える。
 形を保っているのもあるようだが、崩れないか心配なほどだ。
 だがそんな事は予想の範疇だった。
 それよりも目を引いたものがあった。
 ――――赤黒い世界……
 樹木や大地が赤黒く染まっている。
 瓦礫の山はどうかわからないが、形を保っている建物には赤黒い染みがある。
 全てではない。
 所々だ。
 今は昼なので夕日で紅くなっているわけでもない。
「落下の衝撃でここまでにはならないですよね……」
「これだけ魔物がいて、そういう発想が出来るのか?」
 クラウスはルーファスの言葉を一蹴した。
 赤黒いものの正体は…………血だった。
 どれほどの人が殺されたか解らないほどの……おびただしい量の血。
 それが乾いて大地を、樹木を、建物を赤黒く染めている。
 だが周囲にそれを流したであろう者達の遺体はない。
 魔物に喰われたか……もしくは回収されたかのどちらかだろう。
 クラウスの見立てでは……前者だったが。
 遠くに魔物が見える。
 周囲にも…………いる。
「これってヤバイんじゃないですか? クリスト、平気か?」
 ルーファスのその言葉を聞いてクラウスは自分の失態に気付く。
 クリストは…………血が駄目だった。
 慌ててクリストの方に振り向いた。
 そこには――
 この光景を見て目を見開き、目を逸らす事さえも出来ず、ただ立ち尽くしているクリストの姿だった。
「あ…………ああ……」
 クラウスはクリストの正面に回りこむと、クリストを抱き締めて視界を塞いだ。
 これ以上この光景を見せない為に。
「クリスト!?」
 ルーファスが驚いたように二人を見る。
 ルーファスは事情を知らない。
 そのルーファスに対してクラウスは一言で説明した。
「クリストは血が駄目だ」
「本当ですか!?」
 顔面を蒼白にして震えているクリスト。
 ガタガタと震えながらクラウスの服を掴む。
「どうするんですか? クラウス執行吏」
「どうするもこうするも……」
 クラウスはそう言いつつも非常に困っていた。
 この状態のクリストを連れて歩くのは非常に危険だ。
 このままではクラウスは紋章術を使う事が出来ない。
 ルーファスだけでこの量の魔物を相手にするのは無理だろう。
「イ……イヤ――――」
 クリストは恐慌状態に陥っている。
「う…………うぅ……――」
   ――クリストの記憶喪失に関係あるかもしれないから連れてきたが……
     これじゃあ無理だな。
     この状態のクリストじゃあ判断できない……
     記憶に繋がりそうなんだが……
     仕方ない――


「ルーファス」
「何ですか?」
 ルーファスは心配そうにクリストを見ている。
 そのルーファスに対してクラウスは驚くべき事を言った。
「今から地上に降ろすからクリストと一緒に村に戻ってくれ」
 クラウスの言葉にルーファスは一瞬硬まった。
 その意味を理解した時、猛然と抗議する。
「オレ一人でこんな危険な森の中をクリストを護りながら帰れって言うんですか!?」
 無理です! 絶対無理です!! と抗議するルーファス。
 そんな事を言われるのは承知の上だったのか、クラウスはすぐにルーファスを諭す。
「さっき散々魔物は倒した。だからしばらくは平気なはずだ。
 それに、ルーファスとクリストを連れたままあの魔物の巣に行くなんて自殺行為、出来るはずが無いだろう」
「でも…………」
「俺が囮を引き受けるから大丈夫だ」
 なおも言い募ろうとするルーファスを黙らせると、二人を崖の下に下ろした。
「じゃあ、よろしくな」
 クラウスは荷物の中から薬を取り出すとルーファスに押し付けた。
「…………はい」
 そして不安げな顔をしているルーファスにクリストを預けるとクラウスは再び空に舞い上がった。
 浮遊島に足をつけると、即座に印を組んだ。

   ……  ε ι ξ μ ι γ θ τ β ς ε ξ ξ τ

 右手に持っている杖を空に向かって高く掲げる。
   ――灯り(とも)る道に(まど)う子羊


 空高くに照明弾のような光の球を打ち上げる。
 これで魔物はクラウスの方に寄ってくるはずだ。
   ――無事に逃げてくれよ……


 クラウスはそう祈りつつ奥へと足を踏み入れた。
 魔物は続々とクラウスの方に集まっていった。
「俺はそう簡単にやられはしない」
 クラウスは不敵に微笑むと印を組み始めた。

   ……  ε ι ξ ε ξ η ε μ σ ε τ ø τ ζ ο ς τ ε ι ξ μ ι ε δ ø υ σ ι ξ η ε ξ υ ν ε ι ξ ε ξ σ τ υ ς ν ø υ ς υ ζ ε ξ

 緑色の紋章陣が現れ、周囲の風が集まり始める。
 渦巻く風の力を支配する。
   ――嵐を(おこ)す天使の()び声


 クラウスを中心として激しい風の刃が吹き荒れる。
 だが、魔物を巻き上げて空に飛ばすような事はなかった。
 その風の刃は巻き上げたりせず、容赦なく周囲に集まっていた魔物を切り刻んだ。
   ――あまり周囲に影響を与える紋章術は使えないな……


 術を食らいあっさりと崩れ落ちる樹木とその地面。
 落下した影響で地盤も脆くなっているのだろう。
 そんなところで大技なんて放てばどうなるかなんて火を見るより明らかだ。
 クラウスといえどもいきなり地面が崩落しようものならどうにも出来ない。
 しかたがないので周囲にあまり影響を与えない術を使用することにした。
 どちらかと言えば派手な爆発を起したりするような陽の術よりの陰の方が得意だ。

   ……  ε ι ξ ε ξ η ε μ τ α ξ ø τ δ α ζ υ ς ø υ ζ ς ι ε ς ε ξ υ ν ø υ ε ι ξ ε ν τ α ξ ø ι ν θ ι ν ν ε μ ø υ τ α ξ ø ε ξ

 青い紋章陣が足元に浮かび上がる。
 だがクラウスは走っている。
 紋章陣はクラウスの足元に在り続けた。
 周囲の気温が下がる。
   ――空舞う氷結に踊る天使


 周囲に複数の氷の刃が現れる。
 それを前方にいる魔物に飛ばして倒す。
 魔物は降り注ぐ氷の雨に串刺し状態になる。
 青黒い血の飛沫が上がる。
 クラウスはその魔物の死骸を踏み越えるようにして先に進んだ。
 一所に止まっていると標的にされるからだ。
「ちっ!!」
 獲物を見つけた魔物が次から次へと近づいてくる。
 クラウスは思わず舌打ちをして、印を組んだ。

   ……  δ ι ε ζ α μ μ ε δ ι ε ι ξ δ ε ς ε ς δ ε α ξ χ α γ θ σ τ

 黄緑色の紋章陣が辺り一体に現れた。
 風の音がさやさやと鳴る。
   ――大地に根付く精霊の罠


 クラウスは大地に向かって術を発動させた。
 大地から次々と太く立派な幹が生え、周囲を蔽った。
 広範囲に渡って樹木が激しくのたうつ様に現れ、魔物を締め上げながら生えていく。
 あまり派手な術は使いたくなかったが、この術ならば平気だろうとクラウスは踏んだ。
 この術は大地の中にも網の目のように根が張っている。
 元から生えていた樹木の根をも取り込んで生えるので崩れるような事はないだろう。
 クラウスは地面がすっかり見えなくなった大地を、樹木の上を走るようにして先に進んだ。
 そして再び周囲に闇の気配が満ちる。
   ――ああ、もう!! キリがねぇ!!


 クラウスは半ばキレながらも周囲から襲い来る魔物を始末しながら奥へ奥へと進んでいった。





 中心部の方も建物の損傷は激しかったが、思ったよりは形を保っていた。
 落下してもこの程度で済んでいるという事は、元からとても丈夫な建物なのだろう。
 だが、そんな事よりも崩れた建物の壁や地面を赤黒く染めている血の方が気になった。
 おそらくこの浮遊島全体でこんな感じなのだろう。
 周囲を見回したが、この辺りには魔物はいないようだ。
 好都合だった。
 クラウスは荷物の中から小瓶を取り出した。
 その小瓶の蓋を開ける。
 別に何も入っていない、何の変哲も無い空瓶だった。
 次に懐から銀のナイフを取り出すと、血痕のこびり付いた元は青かったであろう壁を削り落とす。
 その欠片や血のついた粉を小瓶に入れ、蓋を閉めてまた荷物の中にしまう。
   ――これだけ辺り一面が血塗れだという事は相当の数の天使がやられたと考えるべきだろうな。
     ここにも死体が一切無いが……天使が回収したか魔物に喰われたんだろうな。
     魔物に喰われたのがほとんどだとは……思うが……――


 最早この地に生存者はいないだろう。
 もう少し調べてみたい気もしたが、同じ場所にいつまでもいるのは非常に危険だ。
 何しろ魔物は少しも減った気がしないからだ。
 一体どれ程の数がこの地にいるというのか……
 考えたくも無かった。
 そして現れる魔物を屠っていると、比較的大きい建物を見つけた。
 それほど損傷は激しくないようだ。
 中に入っても大丈夫だろう。
 傾いているし、建物に罅も多いが、崩れ落ちたりはしないだろう。
 幸い中に魔物はいないようだ。
 だが、相変わらず中も惨劇の跡が濃い。
 足音を立てないように、慎重に奥に進んでいく。
 そしてしばらく歩いていると少し広い場所に出た。
 そこは廊下と違って赤黒い地に染まってはいなかった。
   ――祭壇みたいなところだな。


 そう思いながら進んで行くと、床に鏡のようなものが落ちていた。
 クラウスは惹かれるように手を伸ばした。
 まじまじと見てみるが、古ぼけた銀色の鏡という事以外はわからない。
 何の力も感じない。
 悪意が籠もっているわけでもないようだ。
 美しい装飾が施されただけの古い鏡……
 クラウスはそれを持って帰る事にした。
 何故そう思ったのかはわからない。
 手に持っていると何故か、熱い感じがした。
 クラウスは荷物の中に鏡をしまうと周囲を見回した。
 これ以上奥にはなにも無いようだ。
 いつまでも崩れかけた建物にいるわけには行かない。
 クラウスは注意しながら建物を出た。
 外に出るともう日が暮れかけていた。
 夜は魔物の世界だ。
 ここにいるのは非常に危険だ。
 クラウスは印を組んだ。

   ……  δ ε ς ζ μ υ η ε μ δ ε ς μ ι γ θ τ ε ι ξ ε ς ε ς σ γ θ ε ι ξ υ ξ η φ ο ξ ε ι ξ ε ς μ ε β ε ξ δ ε ξ π ε ς σ ο ξ δ ι ε χ ι ξ δ τ ς α η τ τ α ξ ø τ

 薄紫色の光が周囲に満ちる。
   ――風纏う精霊の光舞う翼


 背中に音も無く薄紫色の翼が生え、クラウスの周囲をやんわりと光が覆う。
 この術は高度の高い所でも飛べる術だ。
 クラウスは魔物を避けるために高い空を飛んで帰る事にした。
 そのためには酸素が必要だ。
 この薄い光の内側には酸素がある。
 酸素が使用されても自動的に生成される。
 これで酸欠で術が切れるという事も無い。
 クラウスは大地を蹴ると空に舞い上がった。
 そして周囲に目を凝らす。

 


 村の方向をしっかりと確認しなければならない。
 クラウスにはもうどこをどう歩いてきたかなんて解らない。
 確認する方法は視覚のみだ。
 なんとか村らしきものを確認したクラウスは、そちらの方向に高度を上げながら向かった。