ルーファスはクラウスに言われるまま村に戻ってきた。
震えるクリストを連れて。
浮遊島の方から二度ほど轟音が聞こえたが、それ以降は静かだった。
クラウスがああやって囮を引き受けてくれたお蔭か、こちらに魔物がやってくる事は無かった。
実にありがたいことだった。
この状態のクリストは無防備以外の何者でもない。
逃げる事は出来ないだろう。
ルーファスは無事に森を抜けられる事を祈りつつ、クリストを引きづるようにして村へ向かった。
そして何事も無く村につくことが出来た。
迷惑だとは思う。
悪いとも思うが、今のクリストの状態ではそんな事は気を遣っている場合ではない。
ルーファスは昨夜泊めてくれた親切な村人の家へと向かった。
あの惨状からいまだ立ち直れていないクリストを休ませてやりたかった。
宿屋のないこの村では他に頼れるものは無い。
「あれ? あんた達どうしたんだ?」
声をかけてきたのは昨日泊めてくれた村人だった。
「ん……? 一人足りないけど…………まさか!」
ルーファス達の様子とクラウスがいなかった事から最悪の方向に予想を立てる村人。
それに気付いたルーファスは慌てて訂正した。
「イヤイヤイヤ、違うって! 浮遊島までは行ったんだけどさ……その…………」
一般人にあの惨状の話をするのは躊躇われた。
「血みどろで――」
ルーファスの表情が曇った。
これ以上は言えない。
あんなモノ、知らない方が良い。
「――クリストは血が苦手だって……だから具合が悪くなったから先に連れて帰ってきたんだ」
真っ青な顔をしたクリスト。
その表情はどこか虚ろだ。
そんなクリストを見た村人は慌てて家の中に案内した。
どこからどう見ても具合の悪そうなクリストはすぐにベッドに寝かされた。
そしてリビングで一息つく。
「あいつ、大丈夫か?」
隣の部屋で眠っているクリストを気にする村人。
明らかに普通の状態ではなかった。
ルーファスはテーブルの上に置いたクラウスから押し付けられた薬を見ながらそれに答えた。
「さぁ、オレはよく知らないから」
ルーファスがクラウスから貰ったのは睡眠薬だった。
それも病院から処方されるようなものではない。
薬品開発室室長であるアウグストが調合した強力な睡眠薬だ。
この薬なら夢すら見ることのない眠りを与えるだろう。
「クラウス執行吏が血がダメだって言ってたからな」
クラウスはクリストがどうなるか、わかっていたのだろう。
少なくとも、こんな事が起きるかもしれないと危惧はしていた。
だからこそ、こんなモノを用意していた。
無理矢理寝かしつけるにはこれしかない。
「クラウスってあの制服着てた銀髪の……」
「うん、そう」
「大丈夫……なのか?」
それは一人で魔物の巣窟に足を踏み入れた事を指しているのか、それとも惨状にいる事を指しているのか……
ルーファスはおそらく両方だろうと推測して言った。
「平気でしょ。
だってあの人オレと違って亜人だし、アスガルドの三賢者の一人だし。それに執行部は魔物の駆除が仕事だからね、ああいうの慣れてるだろうし。それになにより無茶苦茶強いし」
足を引っ張るものがいない分、周囲を気にせず攻撃できるだろう。
クラウスが護らなければならないものは側にいない。
ただ、自分の身を案じればよいだけなのだから。
あの方向音痴だけが気がかりだったが、まあ……大丈夫だろう。
ルーーファスの言ったとおり、クラウスは日もすっかり暮れた夜に元気に帰ってきた。
「こんばんは」
そう言ってルーファストに連れられてクラウスが家に入ってきた。
何故ルーファスと一緒かというと、理由は一つだ。
方向音痴のクラウスがこの家にたどり着けるはずが無い。
それを心配したルーファスが夕暮れ時からずっと、元は広場だった所で待っていたのだ。
いくらクラウスでも夜になってもあの魔物の巣窟に居る様なことは無いだろうと踏んで。
それは正解だった。
まさか空を飛んで帰ってくるとは思っていなかったが。
暗くなってルーファスがどうしような悩んでいた時、クラウスが降りてきたのだ。
こうしてクラウスは無事に辿りつく事が出来た。
クラウスだけならいかに狭い村の中といえど迷うに違いなかったから。
「お、無事だったか」
家主は五体満足で帰ってきたクラウスを見て言った。。
クラウスは右手に杖を持ったままだったが、目に見える怪我というものはしていない。
かなり疲れてはいるようだったが。
流石のクラウスといえどあの数の魔物を相手にするにはちと骨が折れたらしい。
クラウスはどかっと無遠慮に椅子に座るとだらりと四肢を投げ出した。
「クラウスさん?」
ルーファスは訝しげに見つめた。
クラウスがこんなにだらしない格好をしたのを始めてみたからだ。
「――疲れた」
はぁ……と溜息をついてがっくりと俯く。
そしてクラウスは杖をしまった。
相当疲れているようだ。
「どうぞ」
差し出された紅茶を一気に胃袋の中に流し込む。
「クリストは?」
姿の見えない少年の事を気にかけるクラウス。
ここにいない理由はクラウスにも解っているだろうが。
「寝てますよ。アウグスト室長の調合した薬品ですからね。効かないはずがありません」
「そうか」
クラウスはやはり薬で無理矢理寝かしつけた事を知る。
休めといっても休めるものではなかっただろう。
何かあった時のために強奪しておいて良かったとクラウスは心の底から思った。
そんな二人の前に食事が運ばれてきた。
二人は食事を運んできてくれた村人を見る。
「疲れてるみたいだしさ。食べて元気になってくれよ」
「すみません。今日もお世話になっちゃって……」
「良いって。じゃあ、おれはじーさんのとこで一緒に食べるから、ここ使って良いぜ」
そういうと村人は部屋を出て行った。
クラウスは本当に疲れているのでお言葉に甘える事にした。
ルーファスもいただきますと言って食べ始める。
クラウスは出された食事を遠慮なくばくばくと物凄い勢いで食べていく。
「クリスト、大丈夫ですかね?」
「多分、平気だろう。明日になれば元の通り……とまではいかなくても会話が出来るぐらいには回復するさ」
「だといいですけどね」
クリストの表情を思い出して言う。
まるで生気の篭っていない瞳。
血がダメな理由なんてロクなものじゃない。
過去のトラウマからそうなるものの方が多いからだ。
そんな事がなければ良かったのにとどうにもならない事を思う。
「それで、何か収穫はありましたか?」
「…………まぁ、少しはな」
魔物が多すぎて収穫と呼べる物はあの鏡と血痕ぐらいだ。
血痕はまたアウグストに頼んで解析してもらうとしても、問題はあの鏡だ。
帰ったら自分でいろいろ調べてみたいが、時間がない。
帰ったらまた山のような書類が待っているだろう。
でも、何の力もないものに何故引かれたのかが気になる。
「――――クリストも明日になれば元気になるだろう。
明日、アスガルドに帰るぞ」
「帰るっていいですけど……馬車無いですよ」
こんな寂れた村からじゃ馬車も出ない。
いくらなんでも歩きで交易の街ヤリエスに行くのは時間がかかりすぎる。
「北にある町まで行けば馬車ぐらい出てるだろう」
ただそれまでは歩きだけどな、と食べる合間に呟く。
「まぁ、それはしゃがないですね。わかりました」
全行程歩きじゃないだけかなりマシだ。
三人は再びこの家に厄介になった。
――だが、クラウスが目覚めたのはこの二日後だった。
「クラウス執行吏。一日中寝るなんてかつて無いですよ」
クラウスはルーファスに白い目で見られた。
クラウスにしては異常に早い時間に目が覚めた。
目が覚めたのでソファーから起き上がると椅子に座っていたルーファスにそう言われた。
その言葉に気付く。
寝過ごしたことに。
クラウスとしては次の日だったのだが、どうやら違ったらしい。
だが、寝心地の悪いソファーで丸一日も寝れる事は十分凄かった。
よほど疲れていないと出来ない芸当だ。
クラウスとしても、丸一日も寝てしまった事に驚いた。
起されても起きれないほどの睡眠を必要とするなんて……
クラウスはルーファスの言葉にややバツの悪そうな顔をして答える。
「仕方ないだろ。一昨日は紋章術を使いすぎて疲れてたんだから……」
こんな事を言っても言い訳にしかならない事は十分に理解していたが、言わないのもなんかイヤだった。
「精神力ってのは基本的に寝ないと回復しないんだよ。食べ物じゃあまり回復しない。
ただ、マナ植物が側にあれば何もしていなくても回復していくけどな。生えてる場所は限られてる」
それを聞いたルーファスはクラウスの寝起きの悪さを思い出す。
誰もが起すのに一苦労だというあの寝起きの悪さを……
「もしかしてクラウス執行吏の寝起きが悪いのはその所為もあるんですか?」
「…………それもあるな」
だがクラウスは低血圧だった。
寝起きが悪いのは精神力を回復させる為だけではない。
体質についてはどうしようもないので、クラウスは最早諦めている。
一日中寝たお蔭か今日は妙にスッキリしている。
これで眠いなどといったらかなり重症だが……
疲れはしたが精神力を空にしたわけではないので眠くはない。
「さて……寝過ごしてしまったが、あまりゆっくりもしていられないな。とっとと帰らないと……」
クラウスはソファーから立ち上がった。
そしてルーファスの隣で椅子に座っているクリストを見る。
一昨日よりは顔色は良い。
万全とは言いがたいが……
「大丈夫か?」
クラウスが声を掛けると、しばらくしてから力のない声が返ってきた。
「…………はい」
まだショックから立ち直れていないようだ。
余程堪えたらしい。
具合が悪いからといってこれ以上世話になるわけにはいかない。
クリストには悪いが出発することにした。
アスガルドに帰ったらゆっくりと休ませれば良い。
クラウスはこの時そう思った。
そして世話になった村人にお礼を言うと家を出て、村を後にした。