三人はここから北にある豊饒の町クルーゼルへと向かって、街道を歩いていた。
「行きは馬車だから楽だったけど帰りは歩きかぁ……」
 ルーファスが延々と続いている街道を見て溜息をつく。
「……結構ありますよね」
「そうだな。歩きだと…………三日ぐらいか?」
 げぇ、とうんざりした様な声を上げるルーファス。
「泣き言を言うな。ここはアスガルドじゃ――」
 ルーファスを叱咤していたクラウスだが、急に黙った。
 ぴたりと足を止める。
 いきなり話を止めたクラウスをいぶかしんで後ろを振り返るルーファス。
 クリストも不安そうにクラウスを見た。
「どうかし――」
 その時、ルーファスも感じた。
 おぞましいほどの冷たい気配を、確かに感じる。
 そして後方から刺す様な冷たい空気が流れてきた。
 いきなり気温が下がるはずはない。
 そして、これほど冷たい空気が流れ込んでくる事なんて――ない。
 足が震える。
 本能が叫ぶ。
 危険だと――
 ここにいてはいけないと――
 そして次の瞬間、背筋に冷たいものを感じた――
   ――まずい!!


 ルーファスは横にいたクリストを抱き締めるとそのまま走り、跳んだ。
 その瞬間、後方から爆音が聞こえ、爆風に吹き飛ばされそうになる。
「クラウスさん!?」
 爆音が聞こえたのはさっきまでいた場所だ。
 何が起こったのか理解出来ていないクリストだったが、土煙が舞う中でクラウスを探した。
 土煙がおさまると、さっきまで居た場所に二人の男が立っていた。
 一人は勿論クラウスだ。
 クラウスは防御壁を張ったらしく、傷一つ負っていない。
 アレの存在に早くから気付いていたからこそ、出来た事だ。
 その存在に気付くのが遅れたルーファスにはなんとか回避する事しか出来なかった。
 悔しいがこれが力の差だ。
 人間には限界がある。
 判断能力は亜人には及ばない。
 次にルーファスは、本能が拒絶する、明らかにヤバいものに目を向けた。
 クラウスの正面に立っている……男――
 ――燃えるような赤い髪に赤い瞳……それだけならただの人だった。
 だが、アレは違う。
 それは見れば解る。
 何故ならその男は空中に浮いており、人ならざるいでたちをしていた。
 ――羊のような角が頭の横から生え、背には二対の蝙蝠の様な翼……竜のような尻尾を生やし、両手両足には鋭い爪…………そして何より印象的なのは瞳――暗く、虚ろな、光の宿っていない赤い瞳……
 間違いなかった。
 見間違えようがなかった。
 本能も叫んでいる。
 クラウスは苦虫を潰した様な顔で呟いた。
「魔族か……」

 ニタ。

 その男はそれはもう楽しそうに…………嗤った。
 ビクッ――
 その笑みに恐怖を覚えたクリストはルーファスにしがみついた。
   ――コワイ……


 生きとし生けるもの全ての敵――
 生きとし生けるもの全てを恐怖に包み込む破壊者――
 それはコワレタ笑みを浮かべて嗤う――
 それは滅びと絶望の象徴――
 恐怖に震える体は悲鳴を上げる。
「ソコニイタノカ」
 その言葉は目の前に居るクラウスに発せられたものではなかった。
 魔族の空虚な瞳が見ているのは一点のみ――
 それは……
「クリストに用があるようだな」
 そう、クリストだった。
 クリストはますます怯えた。
「だが……ここから先へは行かせない」
 クラウスは魔族の視界に入り、クリストから隠す。
 そして今始めて気がついたというようにクラウスを見る魔族。
「――キサマハセイギョシステムノチュウスウニハイリコンデイタアジンダナ。キサマニヨウハナイ。ジャマヲスルナ」
 抑揚のない、暗く、冷たい無機質な言葉――
「お前になくとも俺にはある」
 クラウスはルーファスやクリストの様に魔族に竦んだり怯えたりはしなかった。
 クラウスは右手を前に出し――
「我が半身にして我が力の礎――
 我が前にその身を現せ――
 <蒼き珠の聖杖レヴァンテイン>!!」
 喚んだ。
 そして構える。
「ジャマヲスルツモリカ?」
 虚ろな瞳がギョロリとクラウスを見る。
 普通の人間ならこれだけでも息が止まりそうになる光景だ。
 それなのに、クラウスは毅然としたままだ。
 魔族と戦う為にまず必要なのは何者にも負けない意志の強さだ。
 それが無ければ戦う事すら出来ずに…………死ぬ。
「当たり前だ」
「ナラバ、キサマカラサキニシネ」
 その言葉が終わった瞬間、クラウスの立っている地面がいきなり割れた。
 それを横に跳んで避ける。
「ルーファス! クリストを連れて逃げろ!!」
 クラウスは叫んだ。
 生き残る為に――
「お前が敵う相手じゃない!!」
「クラウスさん!?」
 クリストはその言葉に驚いた。
 恐怖に震える体は一刻も早くこの場を離れたいと思っている。
 それなのに、心は叫んだ。
 見捨てるような事はしたくない。
 感情と理性は全く違う答えを出した。
 クリストの顔が苦悩に歪む。
「俺は平気だ。早く行け! 邪魔だ!!」
 余裕の無いクラウスの声。
 それはそうだろう。
 今まさに魔族と戦闘を開始したのだ。
 魔族の容赦の無い、執拗な攻撃を避けながら印を組んで攻撃をしなければならない。
 それも、生半可な紋章術は効かない。
 魔族に効く紋章術の属性は限られている。
 長い印を組まなければならない。
 余裕など、あろうはずがなかった。
 目の前に居る魔族はかなり強い。
 物凄いスピードで攻撃してくる。
 だが、それは物凄く早く印を組んで紋章術を発動させているのだ。
 それが、あの魔族がどれほど強いかを示している。
 ルーファスにはクラウスの言いたい事が痛いほど良く解った。
 人間である自分では魔族には適わない。
 紋章術さえ使えない自分は、魔族に致命傷を与える事は永遠に出来ない。
 そして何より、恐怖に震えている自分が魔族に立ち向かえるはずが無い。
 足手まとい以外の何者でもない。
「クリスト、行こう」
 ルーファスは腕の中にいるクリストに声をかけた。
 だが、クリストはぼぉっと宙を見ている。
 ――焦点は合っていない。


   ――逃げろ!!
   ――早く行け!




 クリストは思う。
 前に、同じような事…………なかった?
「ルーファス! 俺一人じゃお前らを護りきれない! 早く行け!!」
 クラウスが苛立たしげに叫ぶ。
 そのクラウスをゆっくりと目で追う。
 魔族と戦っているクラウス。
 でも、その言葉も聞き覚えがある。


   ――俺一人じゃお前らを護りきれない!




   ――でも…………何処で?


 けして……けして忘れてはいけなかった気がする。
 それなのに…………覚えていない。
 クリストが思考の海に嵌っている時、ルーファスは焦っていた。
 硬まったまま動かないクリスト。
   ――早く逃げなければ……


 その思いがルーファスを焦らせた。
   ――せめてもう少し遠くに離れないと危険だ。


「クリスト! ほら立って! 逃げるんだよ!!」
 その言葉に、クリストがルーファスを見た。焦点の合っていない瞳で。
「…………また(・・)、僕だけ逃げるの?」
 クリストの悲痛な言葉。
「俺は平気だ! 言っただろう? 『俺は自分の生命を犠牲にして誰かを救おうとは思わない』と――」
 それでも、クリストは動けなかった。
 だって、自分は知っているはずだ。
 その言葉がいかに無意味なものかを――
 そんなクリストを見ていたルーファスはこのままでは埒があかないと結論を出し、震える足を叱咤して立ち上がるとクリストを引きずるようにして戦場から引き離しにかかった。
 子供の姿をしているとはいえ、十歳ぐらいの姿だ。
 そう簡単には動かない。
「イヤ――――!!」
 いきなり耳をつんざくような悲鳴が上がった。
 それは悪戦苦闘していたルーファスの鼓膜を破らんとするほどの悲鳴だ。
 それに驚いたルーファスは後ろを、クリストの見ている方向を見た。
「――!!――」
 カラン……
 音を立ててクラウスの持っていた杖が地面に落ちた。
 クラウスは先程まで杖を持っていた右手で、脇腹を押さえている。
 だくだくとおびただしい量の血が流れ落ちる。
 けして軽い傷じゃない。
 かなり深くまで刳られたようだ。
 それでもクラウスはけして膝をつくことなく、魔族を睨みながら気丈に立っている。
 ルーファスは戦慄した。
 クラウスが敵わないなら、自分なんかでは話にならない。
 秒殺される。
 クラウスはこちらを振り向くことなく言った。
「……逃げろと…………言っているだろう……」
「マダタオレナイノカ。スブトイオトコダ」
 スッ――、とクラウスの聖杖レヴァンテインがその姿を消した。
 それは一体何を意味するのか……
 脇腹を押さえていた右手をゆっくりと離す。
 そして、両手を前に持っていく。
「俺は……諦めない事を教えられたから、昔ほど諦めが良くは無い」
 そう言ってクラウスは笑った。
「俺はお前如きに殺されたりはしない」
「ナマイキナコトヲ」
 魔族が再びクラウスに襲い掛かる。
 クラウスはそれを避けながら両手で印を組んだ。
 動くたびに血が流れ落ちる。
 怪我の所為で先ほどよりも動きが遅い。
   ――せめて印が組み終わるまで攻撃を避けないと……
     …………持ってくれよ……………………俺の体――


 魔族の攻撃を何とか避けていたクラウスだったが、脇腹の出血が多く、血が足りなくなっていく。
 そして不意に襲われる眩暈。
 ぼやける視界――
 ふらつく体――
 その一瞬が命取りだった。
 ずぶり――
「イヤ――――!!」
 魔族の右手がクラウスの体を刺し貫いた。
 クリストは悲鳴を上げ、クラウスの方に行こうとする。
 それを全力で押さえつけるルーファス。
 この小さな体のどこにそんな力があるんだと思わせるほどの力でクラウスに手を伸ばした。
「オワリダ」
 魔族はクラウスから右手を抜こうとした。
 だが、その手をクラウスの左手が掴む。
 クラウスは…………うっすらと、笑っていた。
 それは、勝利を確信したかのような笑み――

 


 一瞬にしてクラウスの周囲に複雑な紋章陣が現れた。
 まだ……終わっていない。
 魔族はそれに気付き手を抜こうとしたが、クラウスはけして離さなかった。
   ――滅び逝く……狂える神の…………(うた)……


「――ッッッッ……………………………………………………」
 その瞬間、魔族から音にならない叫び声が発せられた。
 それは大気を震わせる。
 突風が吹き、物凄い力が溢れた。
 ルーファスはクリストを下にして伏せた。
 そして、それがおさまった時…………そこには何も残っていなかった。



 クラウスが一体何をしたのか? それはルーファスには解らない。
 だが、魔族が死んだのは確かだろう。
 その証拠に……先程まで感じていた本能的な恐怖を感じない。
 それに、空気が元に戻っていた。
 クリストはふらふらと立ち上がり、さっきまで戦闘が行われていた場所へと歩き出す。
「クリスト……」
 ルーファスには何と声を掛けて良いのか解らなかった。
「――――……………………たのに…………」
 呟かれた言葉……
「クリスト?」
 それは怒涛のように内側から溢れ出して来た言葉だった。
「言ったじゃない!! 『俺は平気だ』って! 『他人のために命は張りたくない』って! 『本気でやばくなったら見捨てるタイプだ』って!!」
 止まる事を知らないように次々と溢れる出す言葉。
 クリストは泣きながら叫んだ。
 でも、知っているはずだ。
 これが、どれほど無意味な事か……
 言葉がどれほど無意味か……
 自分は知っていたはずだった……
 それなのに……知っているのに……心は、思う通りにはならない。
   ――またやってしまった……
     また同じ事の繰り返し……


 悲痛な言葉を叫び続けるクリストを見ていたルーファスは、それを見ていることが出来なかった。
 そして――――唐突に音が消えた。
 どさりと、崩れ落ちるクリスト。
「――――ごめん……オレにはこうする以外、良い方法が見つからない」
 ルーファスは気を失ったクリストを支えながら、そっと呟いた。
 さっきまでの戦闘が嘘のように空気は澄み渡り、静かな風が吹いた。