――あの日……何が起こったのかわからなかった。
     突然、魔物の咆哮と人々の悲鳴が聞こえた――






 創生暦十六万九千四百四十五年、第二十一月[風の月]九日。
 その日、海水(かいな)は水の制御システムの中枢にあたる浮遊大陸水蓮鏡(すいれんきょう)≠ノ来ていた。
 理由は水の中枢制御システムの調整(メンテナンス)を行う為だ。
 その為に海水(かいな)は護衛天使と共に神界から降りてきた。
 水の中枢制御システムの調整(メンテナンス)は大規模なものなので海水(かいな)の部下の水の神達もたくさん来ていた。
 現地に常駐していた神と共に水の中枢制御システムの調整(メンテナンス)を十日ぐらいかけて行う予定だった。
 その為に海水(かいな)水沙(すいさ)神殿で休息していた。
 システムの調整(メンテナンス)は大変な作業なので十分に休んで体調を万全にしておく必要がある。
 システムの調整(メンテナンス)は午後からだったので海水(かいな)は紅茶を飲んでまったりしていた。
 そんな時、空気が変わったような気がした。
 ゾクリと寒気に襲われる。
 とてもイヤな気配を感じた。
 不安に思った海水(かいな)は窓から外を見ようとした。
 その時、悲鳴が聞こえた。
 それも一人や二人じゃない。
 悲鳴というよりも絶叫に近いそれは不安を煽った。
 そして聞こえる咆哮――
 それは紛れもなく、魔物のものだった。
「何!?」
  海水(かいな)は慌てて窓に駆け寄った。
 そこから見えたのはたくさんの魔物と戦っている天使たち。
 だが、数の所為もあるのか天使たちが押されている。
 元々、水属性の神や天使たちは攻撃力が低い。皆、温厚なのでいつでも平和な場所なのだ。
 だから天使たちが圧倒的に不利だった。
 海水(かいな)自身も攻撃は苦手だ。
 それに水の力は攻撃より補助的なものの方が多い。
 どうしてこんな事に……
 海水(かいな)はぎゅっと窓枠を握り締めた。
 ばんっ!!
海水(かいな)様!!」
 突然扉を蹴り飛ばすような勢いで中に入って来たのは、水の最高神である海水(かいな)を護る護衛天使の鴉瑠杜(あると)禧瑳(きさ)だ。
 そして海水(かいな)の姿を見ると安堵の息を吐く。

 


「良かった、ご無事でしたね」
 その言葉に対して、海水(かいな)は無性に悲しくなった。
「良くないよ! だって、皆が――」
 その声を制し、禧瑳(きさ)海水(かいな)に大きな外套を被せた。
 海水(かいな)をすっぽりと覆い隠すような大きなものだった。
「な、何これ?」
「気休めにしかなりませんが……これで少しは誤魔化せるはずです」
 海水(かいな)の心に引っかかる言葉。
「誤魔化せる?」
 戸惑いを見せる海水(かいな)禧瑳(きさ)は少し躊躇ったが、隠しきれるものではない。
「魔物だけではなく、魔族も入り込んでいます」
 その言葉に衝撃を受ける海水(かいな)
 魔族と戦う力はこの水蓮鏡(すいれんきょう)には無い。
「魔族の狙いは恐らく…………貴方です。海水(かいな)様を殺す事が目的なのです」
 その言葉に衝撃を受ける海水(かいな)
「…………う……嘘…………――」
 よろよろと窓を見る海水(かいな)
 戦っていた天使たち。
 いや、あれは戦っているとはいえない。一方的な殺戮だ。

 その天使たちは自分の所為でこんな酷い目に遭っている。
 そう思うと苦しかった。
 禧瑳(きさ)海水(かいな)の手を取ると引っ張るようにして部屋を後にした。
禧瑳(きさ)、何処に――」
 誰もいない廊下を走る二人。
「逃げるんですよ。ここにいては危険です」
「逃げる? 皆を見捨てて?」
「当たり前です!!」
 戸惑う海水(かいな)にきっぱりと告げる禧瑳(きさ)
「僕だけ逃げるなんて――」
 海水(かいな)禧瑳(きさ)の手を振り払った。
「そんな事――」
「貴方が逃げなかったら、皆が命を張って足止めしてくれた意味がなくなります」
 解ってください、そう言って禧瑳(きさ)海水(かいな)の両肩に手を置いた。
「でも、僕のために――」
 ミンナガシヌ――――
「い、いや! そんな事……そんな事出来な――」
 禧瑳(きさ)には海水(かいな)がそういうであろう事は予想がついていた。
 海水(かいな)は優しいから、誰かを見捨てて……誰かを踏み台にして生きる事など望まないであろう事は、十分に解っていた。
 ずっと海水(かいな)に仕えてきたのだ、解らないはずがない。
 だが、それでも――
「申し訳ありませんが、それは出来ません。
 海水(かいな)様さえご無事ならば良いのです。例え、どれほどの天使や神が犠牲になろうとも――」
「――!?――」
 海水(かいな)は信じられない気持ちで目の前にいる人物を見た。
「そんな……そんな事言わないで…………そんな悲しい事、言わないでよ――――禧瑳(きさ)
 そんな言葉、海水(かいな)は聞きたくなかった。
「…………それが私の使命です。貴方をお護りする事が。
 それに、貴方に万が一の事があればこの世界はどうなりますか?」
「それは――」
 海水(かいな)とて、それが解らないわけではなかった。
 自分が死に、制御システムが破壊されれば現世はおろか、それに連なる世界の崩壊に繋がるという事……
 そんな事は解っていた。
 でも、解っていても…………心は悲鳴を上げる。
 見捨てないで、と――
「貴方は優しすぎます。ご理解くださいとは言いません。ですが、どうか堪えてください」
 そう言うと、禧瑳(きさ)は再び海水(かいな)の手を取って走り出した。
 生き残る為に――




 水沙(すいさ)神殿の外に出ると、すぐ隣にある聖蒼殿(せいそうでん)に入った。
 そして禧瑳(きさ)は一直線にある場所に向かった。
 そこはこの聖蒼殿(せいそうでん)の一番奥……
 そこには鏡が安置されていた。封鎖神魔鏡(アブディヒトゥング=シュピーゲル)というイニシエの道具だ。
 禧瑳(きさ)はその道具を手に取った。
「? 禧瑳(きさ)…………何を――」
 訳がわからず、困惑する海水(かいな)
 海水(かいな)には何故、禧瑳(きさ)がここに来たのかもわからない。
 そんな海水(かいな)禧瑳(きさ)は説明した。
「この鏡は力を封印する事が出来るといわれています。これを使い、少しでも魔族の目を潜り抜けましょう」
禧瑳(きさ)――」
「私一人では何時まで貴方を護りきれるか判りません」
 その言葉に海水(かいな)は不安を覚えた。
禧瑳(きさ)も……禧瑳(きさ)も僕を置いていくの? 独りにするの?」
 禧瑳(きさ)は…………答えなかった。
 沈黙は肯定――
 海水(かいな)にはそれが痛いほどよくわかった……
 禧瑳(きさ)海水(かいな)の為になら死ねる。
 そんな事、言われなくても解る…………
 それでも、イヤだった――
 目の前で誰かが死んでいくのは――
 独りにされるのは――
 …………堪らなく怖い――
 知らないうちに海水(かいな)は泣いていた。
 禧瑳(きさ)は泣いている海水(かいな)に近付いた。
「申し訳ありません」
 そう言って鏡を海水(かいな)に向けた。
 そんな謝罪の言葉なんか聞きたくないと海水(かいな)は言いたかった。
 だが――鏡から溢れ出した光が、力が、海水(かいな)を締め上げた。
 身体が言う事を利かない。
 そして、徐々に光は治まっていった。
 海水(かいな)が再び目を開けたとき、違和感を感じた。
 まず、目線が低い。
 そして、何故かだぼだぼの……服。
 何が起きたのか解っていない海水(かいな)を見つめていた禧瑳(きさ)はぼそりと呟いた。
「――――これは鏡を使用した副作用といった所ですか……」
 そして海水(かいな)は気づく。
 自分の背が縮んでいるという事に――
 そして、能力が全く使えない事に――
 禧瑳(きさ)は神術を使い、海水(かいな)の服の大きさを縮めて調度良くした。
「ですが、好都合ですね。この姿なら、少しは誤魔化す事が出来ます」
 見る者が見ればすぐに気付かれる。
 海水(かいな)の持つ力は隠しきれるものではない。神を隠すという事は大変な事だ。
 それでも、少しの可能性があるならばと、禧瑳(きさ)はそれに縋った。
 最愛の主を護る為に――
禧瑳(きさ)――」
 海水(かいな)は不安そうに禧瑳(きさ)の名を呼んだ。
「行きましょう。大丈夫です。私が、何があってもお護りします」
 海水(かいな)は、禧瑳(きさ)のその言葉がとても不安だった。
 その不安は、禧瑳(きさ)を信頼できないと思っているからではない。
 禧瑳(きさ)は、自分を護るためにならなんだってする。
 それがわかっているからこその不安だった。
 おそらく、禧瑳(きさ)はこれから海水(かいな)を護る為の最善の方法を取るだろう。
 それが、どれほど非人道的な事でも――
 海水(かいな)がどれだけイヤな事でも……
 そうする事で、海水(かいな)を護る事が出来るならば……例え、自分を犠牲にしてでも…………やるだろう――
 だから、不安だった。
 怖かった――
 これから見る光景が…………地獄絵図のようなものだと、わかっているから……
 悲しいモノしか映らないから……
 海水(かいな)は俯いた。
 そんな海水(かいな)禧瑳(きさ)は鏡を渡した。
「時間がありません」
 何時、ここにも彼らが来るか解らない。
 だからこそ、逃げなければならない。
 海水(かいな)だけはけして死んではならない。
 禧瑳(きさ)は再び海水(かいな)の手を取った。
 そして走り出そうとしたその時――
 どしんっっ!!

 ――――物凄い震動が辺りを襲った。
 カラン……
 海水(かいな)はその震動で鏡を落とした。
「制御システムにまで到達したのか!?」
 水蓮鏡(すいれんきょう)のシステムが異常をきたしているのだろう。
 もしかしたら、水蓮鏡(すいれんきょう)を大地に落とすつもりかもしれない。
「ここも危険です」
 禧瑳(きさ)は焦りの表情を浮かべると海水(かいな)の手を引いて聖蒼殿(せいそうでん)の外に向かって走った。
 何としてでも、海水(かいな)だけは逃がさなければならない。
 その想いを秘めて――