外に出るとそこは先程より酷い惨状だった。
 魔物の死骸も多くあるが、その中に天使達の遺体も多くある。
 心が悲鳴を上げた。
 ここは――戦場だった。
 禧瑳(きさ)は剣を出して襲い来る魔物を片っ端から片付けた。
 そしてその場を駆け抜ける。
 勿論海水(かいな)の手を引いて、だ。
 海水(かいな)は目の前の惨状に心を引裂かれ、まともに行動できるような状態じゃない。
 だから手を引いて逃げるしかなかった。
 周りでは天使達が必死で戦っている。
 護衛天使は勿論、階級天使や戦闘にはあまり向いていない守護天使達も戦っていた。
 この状況では、誰であろうと戦わないわけにはいかない。
 そう…………たった一人を除いて――
 天使たちは皆、海水(かいな)を逃がす為に勝ち目のない戦いに身を投じているようだった。
 そう…………全ては水の最高神、水神(みなかみ)海水(かいな)のために――
 禧瑳(きさ)はそんな天使達と二言三言話すと海水(かいな)の手を引いてその場を去る。
 まだ安全な場所を聞いているのか、被害状況を聞いているのかは海水(かいな)は解らなかった。
 でも、皆が皆、こう言う。
 『どうかご無事で――』
 それが海水(かいな)にはとても痛かった。
 しばらく走っていると、急に周囲の気温が下がったような気がした。
 そして尋常じゃないほどの邪気と瘴気を感じた。
「ちっ――」
 禧瑳(きさ)があからさまに舌打ちした。
 普段、けしてそんな行動をしない禧瑳(きさ)が、だ。
 理由は海水(かいな)にも解る。
「ケタケタケタ……」
 目の前で嫌な笑みを浮かべている…………醜悪な存在。
 魔族に対するものだと――
「ミズノカク…………ミツケタ……」
 それは海水(かいな)の事を指しているのだろう。
 確かに、海水(かいな)が死ねば他の誰が生きていても終わりだ。
 それが解っているからこそ、魔族は海水(かいな)を狙い、天使達は命をかけて海水(かいな)を守る。
海水(かいな)様には指一本触れさせはしない」
 禧瑳(きさ)は剣を構えた。
海水(かいな)様、お下がりください」
 魔族はとても強い。
 だから、簡単に倒せるとは思っていない。
 それでも、倒さなければならなかった。
 倒さなければ、海水(かいな)の身が危険に晒される。
 それだけは避けなければならない。
 この状態の海水(かいな)を一人にしておくのはかなり心配だが、魔族相手ではそんなことも言ってられない。
 魔族の放つ紋章術をかわし、素早く斬りこむ。
 ガッキ――ン!!
 魔族の鋭い爪がそれを防ぐ。
 そこに禧瑳(きさ)は太陽の神術を叩き込む。
 力の出し惜しみなどしていられない。
 この戦闘が長引けば長引くほど、海水(かいな)の身が危険に晒される事になる。
 それだけは避けなければ……
 その想いが禧瑳(きさ)を突き動かしていた。
 そう…………全ては最愛の主のために――
 その為に剣を振るう。
 主のためなら…………どんな事でも――
 禧瑳(きさ)はそんな想いで魔族と戦っていた。
 自分がどれだけ傷ついても、厭う事無く。
 海水(かいな)はただ、それを見ていることしか出来なかった。
 戦う力のない海水(かいな)は、足手まといにならないように、後ろで待っていることしか……
 だが、もうこの水蓮鏡(すいれんきょう)に安全な場所は存在しない。
 どこもかしこも魔物でいっぱいだ。
 それなのに……そんな状況だからかもしれないが、海水(かいな)の思考はだんだん麻痺していった。
 地面に座り込み、何故――と、どうにもならない事ばかりが思い浮かぶ。
 カサリ……
 側の茂みが揺れた。
 海水(かいな)は気付かない。
 側に、禧瑳(きさ)はいない。
 でも、彼は水神(すいじん)だった。
 それが、海水(かいな)を守る盾だった。
 海水(かいな)の視界が赤く染まる。
「えっ…………――」
 何が起こったのか解らない海水(かいな)
 海水(かいな)は顔にかかったものを手で拭った。
 ――赤かった。
「――…………!!」
 唐突に理解した。
 これは血だと――
 では、誰の――
 見たくない…………
 見たくないが、顔を上げた。
 そこには、魔物から海水(かいな)を守るようにして立っている天使の姿があった。
「どう…………して…………――」
 かろうじで出した声はちゃんとその天使に聞こえていたのかは解らない。
 でも、彼は言った。
「お逃げください…………海水(かいな)様――」
 笑っていた。
 だが、それは…………とても儚い笑みだった……
 ビシャァ――――
 鋭い爪が天使を引裂いた……
 目を…………離せなかった……
 その天使の血が、海水(かいな)の外套を赤く染めた。
 赤い血に染まった鋭い爪が自分を狙っている。
 海水(かいな)はそれを他人事のように見ていた。
「くっ…………海水(かいな)様!!」
 魔族と戦っていた禧瑳(きさ)がそれに気付き、海水(かいな)に向かって走る。
 魔族は大分傷を負っているようだが、あの程度ではすぐに回復してしまうだろう。
 だが、そんなものよりも海水(かいな)の方が大事だった。
 敵に背を向けた事で鋭い一撃が走る。
 それは禧瑳(きさ)の腕を掠った。
 そんな事を気にも留めずに海水(かいな)の元に行き、魔物を斬り倒す。
 そこにまだ無事な天使達が集まってきた。
禧瑳(きさ)様は海水(かいな)様をお願いします。我々でここは引き受けます故――」
「何、我々でも少しぐらいなら時間稼ぎぐらいは出来ます」
   ――どうしてみんな……


   ――僕を助けようとするの――?


   ――イヤ……


   ――ヤメテ…………


 海水(かいな)は泣いていた。
 自分では、どうする事も出来ないモノのために――
 もう自分では何を考えているのか解らなかった――
「頼む」
 禧瑳(きさ)は躊躇うことなくそう返事をすると海水(かいな)の手を引いて走り出した。
 海水(かいな)は引き摺られるようにしてついて行く事しか出来なかった。
 血の海となった水蓮鏡(すいれんきょう)を駆け抜ける。
 衝撃音や悲鳴は否応なく耳に入ってくる。
 駆け抜けていく時に、天使達と、魔物の間を縫うようにして行った。
 庇われたのも一度や二度ではない。
 その度に外套は血で濡れていった。
 それは、まるで命のように重かった……




 そしていつしか人気の無い森の奥へとやって来た。
「もうすぐです。海水(かいな)、もうすぐ水蓮鏡(すいれんきょう)の切れ目に到着します。そうしたら地上へ――」
 力を失った海水(かいな)が地上に降りてしまえばそう簡単には捕捉出来ないだろうという考えからだった。
 二人は森を抜け、立ち入り禁止区域まで来た。
 立ち入り禁止区域とは、崖になっており、地盤が緩い為にそう指定されている場所だ。
 そういう場所まで来なければ地上に降りれない。
 だが、何時だって物事はそう上手くはいかない――
 辺りにこれまで感じた事のないほどの醜悪な邪気と瘴気が満ちる。
 魔族だった……
 空間が歪み、魔族が現れる。
 禧瑳(きさ)海水(かいな)を庇うようにして魔族と対峙した。
 冷や汗が出た。
 目の前には六人の魔族がいた。
「ココニイタカ……」
 逃げ切れない――
海水(かいな)様、逃げてください」
 それは、とても静かな声だった。
「え?」
「私一人では貴方を守りきれません」
「――!!――」
「早く! 行ってください!!」
 禧瑳(きさ)は剣を構えながら言った。
 海水(かいな)は信じられないといった表情で禧瑳(きさ)を見た。
「――――禧瑳(きさ)も……僕を独りにするんだ…………みんな死んで…………僕だけ――」
 海水(かいな)は力を失くしたようにどさりと地面に座り込んだ。
「みんな……――」
 壊れたように呟く海水(かいな)
 でも、ここで海水(かいな)を失うわけには行かなかった。
 禧瑳(きさ)海水(かいな)の後方を見た。
 そこに広がっているのは青い空。
「…………申し訳ありません、海水(かいな)様」
 そう言って禧瑳(きさ)が振り向いた。
禧瑳(きさ)――」
「本当に…………御無礼をお許しください」
「え?」
 禧瑳(きさ)が何を言っているのか解らなかった。
「お元気で――」
 どんっ!!

 次の瞬間、物凄い力で突き飛ばされた。
禧瑳(きさ)!!」
 海水(かいな)が最後に見た禧瑳(きさ)は笑っていた。
 手を伸ばすがけして届かない。
禧瑳(きさ)――!!」
 海水(かいな)はどうする事も出来ずに水蓮鏡(すいれんきょう)から落下した。
 お元気で――
 それが禧瑳(きさ)の最後の言葉だった。
 遠くなっていく水蓮鏡(すいれんきょう)の大地――
 そんな中でただ思った。
   ――どうしてこんな事になってしまったんだろう……


   ――どうしてみんなここまでしてくれるんだろう……


   ――どうして僕はこんなにも無力なんだろう……



 


 そう思っている間に海水(かいな)の意識は途切れた。
 この状態は非常に危険だった。
 落下地点が安全とは限らない。
 水の上……海ならまだしも、陸に落ちたらただでは済まないだろう。
 しかし、無常にも大地は迫ってきた。
 そこは雪深い森の中――
 かなりの高度から落ちたにもかかわらず、雪がクッションになったために無傷で済んだ。
 雪が……水神(すいじん)を守ったためかもしれない。
 雪も元を辿れば水だ。
 海水(かいな)の意識は冷たい雪に触れても回復する事は無かった。




   ――全て思い出した……


   ――どうして忘れていたんだろう……


   ――けして忘れてはいけない……


   ――イタミのハズだったのに…………