瀞亜(せあ)……」
 この場で、唯一真実を知っている瀞亜(せあ)に確認を取る。
 瀞亜(せあ)は項垂れたまま、呟いた。
「――――はい。彼は……そう…………間違いなく……かつて、天使長をしていた、滄毀(そうき)覇呪(はじゅ)に…………間違い……ありません……――」
「……天使長だった?」
「それほどの地位の者が何故――」
「退屈だったんだ」
 ……コワれている。
 目の前にいる男は、間違いなく壊れていた。
 じっとそんな男を見ていたグリンフィールは違和感を覚えた。
 違和感というよりは……デジャヴ……
 そして思い返す。
   ――堕天使を殺したことなんてない……け……


 そこまで考えて唐突に思い至った。
「そうか……あの顔……どこかで見た記憶があると思っていた」
「グリンフィール?」
契約の天使(メタトロン)の取り巻きの一人によく似ているんだ」
 グリンフィールの言葉にグラキエースとアシリエルも彼を見た。
「そういえば……確か熾天使(セラフィム)の一人に――」
「いたな。こんな顔のガキが」
「……似ていて当然です。彼は……覇呪(はじゅ)破希(はき)の親戚です。破希(はき)の父の母の弟……つまり破希(はき)の大叔父にあたるのが覇呪(はじゅ)です」
「ふ〜ん……あの子供……もう熾天使(セラフィム)なんだ。まだ二百歳の青二才が――」
「その、青二才に殺されたのは一体誰ですか?」
「嫌なことを言うね。契約の天使(メタトロン)
 憮然とした表情をする覇呪(はじゅ)
「どういうことだ? 瀞亜(せあ)
「……百年ほど、前になります。彼が……裏切ったのは――」
 瀞亜(せあ)はぽつりぽつりと話し始めた。
「彼は、かつて……十天使の一人…………光の天使(ルシフェル)を担い、十天使長を……して、いました――」
瀞亜(せあ)がずっと十天使長をしていたわけじゃないのか」
「本来は、光の天使(ルシフェル)が長をします。ですが……今の光の天使(ルシフェル)は……惟利唖(いりあ)はまだ若いので、まとめるだけの力がありません」
 そのため、年の功で瀞亜(せあ)が代行しているらしい
「彼は、とても、優秀な光の天使(ルシフェル)でした……それは……みな…………知っています……なのに――」
「裏切った、と?」
 コクリと頷く瀞亜(せあ)
「信じていた。信用していたし、信頼もしていたんです…………なのに――!」
 それは唐突に壊れた。
「あの日……あの日の、悪夢は、忘れられ、ません……――」





 いつもと変わらぬ日々が続くと信じていたあの日。
 瀞亜(せあ)はいつものように仕事場へ向かう途中だった。
 未だに契約の天使(メタトロン)などさせられているが、少しは年長者を労われとばかりに職務放棄しているので職場に行くのも久しぶりだった。
 だが、いつもと雰囲気が違う。
 ――……誰にも会わない。
 この時間なら誰かしら居るはずだ。
 ――なのに、何故誰にも会わない?
 そう思うながら先へ進んだ。
 だが、とても嫌な臭いがした。
「…………ち…………血の……………………臭……い…………?」
 ぴたりと、足が止まる。
 ここから先へ行くのが…………怖い。
   ――でも……行かなくちゃ……


 重い足を引きずって先に進む。
 そして、大広間の扉を開けた。
「うっ――」
 開けた瞬間に漂ってきた臭いに脳が拒絶反応を示した。
   ――気持ち、悪い……


 思わず口を押さえた。
「あれ? 契約の天使(メタトロン)様、いたんだ?」
 そして場にそぐわない、とても明るく愉しそうな声にそちらを向いた。
「――――ッ!!」
 無意識のうちに身体は後ろに下がった。
「そ、ん……な――」
 そこは、まさに、地獄絵図だった。


 たくさんの天使たちが倒れている。
 ……生きては、いないだろう。
 よく見れば、床は真っ赤に染め上げられている。
 本来、白い大理石で出来ているはずの床が――


 とさり。

 力が抜けた。

「ど……どう、し、て……――」
 瀞亜(せあ)は目の前の存在に問いかけた。
 わからない。
 わかるハズがない。
「どうして……こんなことを――」
 十天使長の光の天使(ルシフェル)が、何故?
 理解できない光景に頭が拒絶反応を示す。

「退屈なんだ」

 ツマラナそうに、そう告げた。
 本来の色とはまるで違う、赤黒い血に染め上げられた服を着て、返り血のついた剣の刀身に指を這わせながら、まるで世間話をしているかの調子で――言った。
「だから、少し戦ってみたら愉しいかもって思ったんだけど――」
 くるりと一回転してとてもがっかりした表情をした。
「歯ごたえ全然なくてツマラナイんだ」

 コワレテいる。
 瀞亜(せあ)は漠然と思った。

 では、いつから?

 わからない。

 わかるはずがない。
 だって、彼は――
 とても優秀な部下だった。
 こんなことをするような男じゃなかった。
 一体どうして、こんなことに――
「そうだ!」
 ばさり。
 覇呪(はじゅ)は勢いよく両手を広げた。
 血に染まったケープが落ちる。
契約の天使(メタトロン)様なら、オレを愉しませてくれる?」
 無邪気に、子供が笑っているようだった……
 そんな印象を受けた。
「遊んでよ? 契約の天使(メタトロン)様」
 そう言って向かってくる覇呪(はじゅ)に何も出来ない瀞亜(せあ)
 ぽろぽろと、涙が零れた。
「なんで泣いてるの? 契約の天使(メタトロン)様?」
 言葉は、もう…………届かない――
   ――僕は……いつから…………こんなに……


 拳をぎゅっと握りしめた。
   ――人を見る目を失ったのだろう……


 コワレタ笑みを浮かべる覇呪(はじゅ)を見て、胸が苦しくなった。
   ――こんな、こんな……狂気に…………気付けなかったなんて……


 瀞亜(せあ)に抵抗する術は残されていなかった。
 向かい来る凶刃に対抗することなど……出来ない。
 瀞亜(せあ)は覚悟した。

 ――死を……

 だが、その瞬間は訪れなかった。

 そして気づく。
 目の前に誰か立っている。
 顔を上げた。
 そこにいたのは――
「何をそんなに怒っているんだい? 破希(はき)
 覇呪(はじゅ)の、又甥の破希(はき)だった。
 二人は兄弟といっても差支えないほど、よく似ていた。
「どうして……どうしてこんなことをしているのですか! 大叔父様!」
 その言葉に首を傾げた。
「何故? そんなの、ツマラナイからに決まっているだろう?」
「こんなことをして許されると思っているのですか!?」
「許す? 誰が? 何を?」
 覇呪(はじゅ)は、それはそれは愉しそうに、哂った。
「楽しければそれでいいよ? どうなろうとも、ね」
 瀞亜(せあ)は絶望した。
 彼は、命を何とも思っていない。
 彼の足もとに倒れている仲間を……道端に落ちている石のように気にも留めていない。
 ただ……そこにあるもの。
契約の天使(メタトロン)様!!」
 たくさんの天使たちが駆け寄ってくる声も、破希(はき)覇呪(はじゅ)に言っている言葉も……とても、とても遠く感じた。
 意識を手放したのは、そのすぐ後だった。


 瀞亜(せあ)が意識を取り戻すと、たくさんの怪我をした天使たちと……ボロボロになりながら涙を流す破希(はき)の姿があった。

 ――そして、至極愉快そうな顔をして床に血塗れで倒れている…………覇呪(はじゅ)
 
 ……破希(はき)が殺したのだと、とどめを刺したのだと、教えてくれたのは聖霞(せいか)だった。
 あまりにも凄惨な出来事に、瀞亜(せあ)は何も言う事が出来なかった。





「……天使の中にも随分危ないのが混じってるんだな」
 瀞亜(せあ)の話を聞いたグラキエースは顔をしかめた。
「本来、あってはならないことです」
「見る限り、そのイッちゃってる性格は変わらなさそうだけど――」
 まとっている力は異質だ。
「深淵界はバール=ゼブルの管轄だ。あいつが手を抜くとは考えにくい」
「どうやってここに来たのです?」
「質問ばっかり」
 ツマラナそうに呟いた。
 聞いても答えが聞けるとは最初から思っていない。
 だが――
「まぁ、いいよ? 口止めされてないし」
 ふふふ……と愉しそうに哂う姿はとても天使長だったようには見えない。
「ルビカンテ様があの牢獄から出してくれたんだ」
「ルビカンテ……?」
 ドンケルハイトの誰か、なのだろう。
 聞き覚えは全くない。
「ルビカンテ様が『その歪に歪み壊れた魂はとても美しくて素晴らしい。だから、我らが王のためにその力を貸してくれる? そうするならば、この何も変わらず、何も生み出さない、退屈で窮屈な世界から解き放ってあげる』って――」
「それで……逃がした?」
「おいおい、その話を聞く限りじゃ他にも――」
「いるよ? たんさん」
「……まさか……空間を直接自由に行き来出来る存在が……退魔結界をものともしないものが存在すると……そういうことなのか?」
 苦々しい現実だった。
「それは当然。この〈ミチ〉だってルビカンテ様が創ったものだし」
 ルビカンテ……おそらく真王(しんおう)の手足となって動いている者だ。
 その力は推し量ることさえ出来ない。
 わかるのは……一筋縄ではとてもいかないという事だけ……
「今回もここに来たのはこの〈ミチ〉の状態を見て来いって言われたからだし」
 そう言って両手を広げた。

   ……  α μ τ ε ς η ο τ τ δ ε ξ ν α ξ ι ν ν ε ς ξ ο γ θ ο θ ξ ε ν ι γ θ ε ς τ ς α η τ ν α γ θ τ ε ι ξ ε ν α υ ε ς δ ε σ μ ι γ θ τ ε σ υ ξ δ δ α σ ε ς μ α υ β ε ξ β ε σ τ ι ν ν τ φ ο ξ ι θ ν ε ι ξ ε ς π ε ς σ ο ξ ξ α θ ø υ λ ο ν ν ε ξ

 それを見たグラキエースは急いで印を組む。
   ――人を寄付(よせつ)けぬ神の願い



 覇呪(はじゅ)の足元は腐っていた。
 覇呪(はじゅ)の撒き散らしている瘴気にやられたのだ。
 あんなものをまともに食らったら天使である瀞亜(せあ)はひとたまりもないだろう。
 特に、弱っているこの身体では、一瞬で死に至る。
 それがわかったからこそ、全力で結界を張った。
 グリンフィールは冷や汗をかく。
 とても堕天使とは思えない力……まだ本調子でない自分では、何の役にも立てないかもしれない。
 破壊系魔皇(まこう)族であるグリンフィールにそう思わせるほどの存在だった。
「さて、魔皇(まこう)族の人たちとはちょっと遊んでみたいけど、もう帰ることにするよ」
「帰る? 何もせずに?」
 覇呪(はじゅ)がここに来てしたことと言えば天使の惨殺のみ。
 他に何かをした形跡は、ない。
 こんなことのためにわざわざ〈ミチ〉を通って来たとは思えない。
「う〜ん……この〈ミチ〉を壊そうとするヤツらがいるみたいだから見て来てって言われただけだし……それに――」
 にやりと、哂った。
「何もできないみたいだから、帰るよ。じゃーね」
 そう言って覇呪(はじゅ)は〈ミチ〉の向こうに消えた。
「くそっ――」
 見透かされた。
「状況は最悪だっ」
 吐き捨てるようにグラキエースは言い放った。