クラウスが悪夢を見てしまったため旅立ちは延期された。
 その日一日は具合が目に見えて悪かった。
 悪夢の内容は、聞けなかった。
 思い出させるのは酷だと、感じた。
 だからそのことには、触れていない。
 触れるのが怖かったのもある。
 崩れてしまいそうで……
 怖い話が苦手な海水(かいな)はもとより話題にしようとも思っていない。
 レヴィアタンは見守るだけだ。
 不用意に触れてはならない……

 次の日になったクラウスは全てを忘れたように、普通だった。

 何も聞かずに、笑顔でこの世界を後にした。




 聖界、白夜殿。
「ここにテルミヌスが……いるといいね」
 白と黒のコントラストが美しい神殿を見つめながら言った。
 それを聞いたクラウス渋い顔をした。
「とてもいるようには見えないが?」
「へ? そう?」
「ああ」
 言われた言葉に眉を寄せてレヴィアタンは気配を探った。
「確かに、大きな気配は…………しないの」
 クラウスはそんなに速攻で相手の気配を探れただろうか?
 そんな疑問をアスモデウスは直球で投げた。
「なんでクラウスそんなことわかるの?」
「え? なんで……?」
 尋ねられたクラウスは困惑した。
「何故? 何故??」
 考え込んだ。
 それを見ていたアスモデウスは引き攣った。
「ま、まさか……無意識?」
 これにはさすがにレヴィアタンも驚いた。
「まさか――」
 アスモデウスとレヴィアタンは同時に思った。

 クラウスは無意識に自分の力を使っている。

 非常に珍しいケースだ。
 だが、あり得ないことではない。
 クラウスはこの環境下において、少しずつ目覚めてきている。
 旅が終わるころには、目覚めるかもしれない。
 彼が目覚めれば、今の力などほんの一欠けらだったと言えるほどになる。
 彼にはそれだけの力がある。
 眠っている力は膨大だ。

 その片鱗が現れ始めている。

 それは明確だった。
「あの――」
 おずおずと話しかける海水(かいな)
 そういう感覚が全くわからない海水(かいな)は彼らの会話についていけない。
「あ、ああ! ゴメン」
 そんな海水(かいな)の想いに気付いたアスモデウスは話題を戻した。
「テルミヌスに会いに行こうか」
「いない確率が高そうだがのぉ」
 それに苦笑するアスモデウス。
 二人はクラウスの感覚を信用しているようだった。
「それでも、聞かないことにはどこにも行けないからね〜」
「違いない」
 そんなこんなで白夜殿に向かった。




「こんにちはー!」
 元気に声をかけた。
「は〜い」
 パタパタと音がして扉が開いた。
「こんにちは」
 そこにいたのは――
「……ゴスロリ」
 驚きに目を見開きながらクラウスは呟いた。
「ゴ、ゴス……?」
 何のことかさっぱりわからない海水(かいな)
 アスモデウスとレヴィアタンも不思議そうにしている。
 そういう単語がないのだろう。
 だが、クラウスの目から見る彼女は間違いなくそういう格好だった。
 黒を基調としたレースがふんだんに使われたドレス。
「あの〜?」
「ああ、ゴメン」
「どちら様ですか? 見たところ――」
 少し言いにくそうに言葉を止めた。
「――人間というわけではなさそうですし……」
「うん。まぁ……そうだね。人間じゃないね」
「わしらはテルミヌスに会いに来たのじゃが……」
「セラスティスがここにいるかもしれないって」
「まぁセラスティス様がですか?」
 少し考え込んでいたようだが、
「わかりました。中へどうぞ」
 案内された。
 そこでクラウスは爆弾を落とす。
「それで、テルミヌスは一体どこに出かけているんだ?」
 弾かれたように振り向いた。
 その表情は驚きに満ちている。
「どうして――」
 ここにいないことを知っているのか?
 彼女の眼はそう言っていた。
「やっぱりいないんだ」
「クラウスの言うとおりじゃったの」
「どうして……結界を張ってわからないようにしているのに」
「ああ、結界……結界かぁ」
「確かに、探りにくかったのぉ」
「でもよく探れば大きな力を持った者がここにいないことはわかったよね」
「うむ」
 神は皆大きな力を持っている。
 だから近くにいればわかる。
 言い換えれば、近くにいない限りわからないということだが……
「う〜ん――」
 クラウスは言いづらそうにした。

「……見たら……なんとなく――?」

 それに反応したのはアスモデウスの方だった。
「見ただけでわかるの!?」
 クラウスはそれに気圧された。
「あ、ああ――」
「どうして!? 見え方が僕たちと違うのかな? やっぱりこれって――」
 その言葉をアスモデウスは飲み込んだ。
 唐突に頭が冷えた。
 ここで言うべきではない。
 それを思い出した。
「……テルミヌス様はいらっしゃいません。あのお方はこの聖界を旅しています」
「彼も、旅……」
「はい……あの……でも、私は一介の天使にすぎないので、これ以上は――」
 知らないのだろう。
 そして、知らせることなどできないのだろう。
 仕方のないことだ。
「イセリアルの神って、皆自由だよね」
 確かにそうだ。
 これがディヴァイアやアービトレイアでは許されない。
 ふらふら当てもなく旅がしたいなどと言ったら間違いなく周囲に猛抗議を受けた上に止められる。
 自信を持って言える。
 だが、ここではそれがない。
「規律が緩いんです」
「規律?」
「世界を構築する様々な要因……それを縛るものがこの世界には少ない」
「そういえば……イセリアルに来てから……精霊を見ない」
 目に見えにくい元素の塊……それが精霊だ。
「クーって、精霊も見えるんだ?」
「ん? ああ……ぼんやりとした小さな翅の生えた人に見えるけど――」
「凄ーい! そこまで精確に見えるなんて……魔皇(まこう)族でもそういないよ」
「そうなのか? アスガルドにはたくさんいたぞ。水の精霊」
「ああ、あの国にはたくさんいそうだね。精霊」
「水の国じゃからな」
 それを黙って聞いていた海水(かいな)は気になった。
「お二人は見えないんですか?」
 精霊がいるのは土地が豊かな証拠だ。
 精霊がいなくなれば土地はやせ衰え滅びるしかない。
 だからいて当り前なのだ。
 当然、神である海水(かいな)には見える。
 でも、話を聞く限り――
「見えないよ。僕にも、レヴィにも」
「そう、なのか?」
「あれは誰にでも見えるものではない。精霊をしっかり見ることが出来るのは神や天使だけじゃ」
魔皇(まこう)族でも精神系の能力がズバ抜けて高くないと無理だよ。それでもぼんやりとした光の球にしか見えないらしいけど」
「亜人や人間にはまず無理じゃな。存在していることを知っていても見ることなど叶わない」
「え? でも――」
 クラウスには見える。
 思い出す。
 アスガルドで暮らしていた時を――
「……誰も……気付いていなかった――」
 変な目で見られていることがあったが、理由が分かった。
 他の誰にも見えていなかったのだ。
 だから何もないところを見ているクラウスは変人にしか見えなかったことだろう。
「……話がだいぶ逸れたな」
「結局この世界って精霊いるの?」
「……この世界には精霊はいません」
 そして衝撃的なことを言った。
「いない? 精霊が?」
「はい。この世界の規律が緩いということは、それだけ世界を構築している要素が少ないということです」
「その、少ない要素の中に精霊はいない……」
「そう……この世界は簡単に滅びます」
「――――!!――――」
「簡単……に?」
「ええ、そうです」
 簡単に言ってくれた。
「イセリアルは最初に作られたとても広い世界です。故に、粗も多い」
 考えてみればその通りだった。
 閉鎖世界ディヴァイアには神が……万物神と呼ばれる神がたくさんいる。
 世界を守るための世界管理者もいる。
 たくさんのものに守られている。
 だが、この世界では違った。

 一つの世界にたくさんと言えるほどの神はいない。

 界≠ニ呼ばれる場所に一人しかいない。
 三界は三つに分かれていてそれぞれの場所をそれぞれの神が管理していた。
 他の世界もそう……一人の神が管理していた。

 それに気付いた時、四人はいかに閉鎖世界ディヴァイアが異常なのかに気付いた。

 この世界と同じでいいならば……一人、もしくは二人で十分だ。
 閉鎖世界ディヴァイアに一人。
 監視世界アービトレイアに一人。
 それで十分なはずだ。
 だが、実際にはたくさんの神が遙か高みの上に暮らしている。
「イセリアルではちょっとしたことで滅んだ世界がたくさんあります」
 イセリアルは世界の集合体だ。
 ディヴァイアとは違う。
「一人の神では世界を見守ることしかできません。何かを引き起こせば、それは全て彼らに還ります」

 閉鎖世界ディヴァイアは超過保護に護られている。

 それに気付いた。
 彼らにとって当り前なことは、大きな世界では異常だった。
 当たり前すぎることは気付かれにくい。
 当たり前すぎて口にも出さないからだ。
 それが当然だと思っているから、口にしない。
 ……ごく一部の者たちにとっての常識も、知らなければ全てそうだと思う。
 今回のことは、まさにそれだった。
「この世界では、神が何をしても大概は許されます。神が何かをすることで世界均衡を崩すようなことはありませんから」
 ディヴァイアで神が直接何かをしようものなら間違いなく均衡を崩す。
 じゃなければ海水(かいな)がここにいる必要がない。
 ここに来たのは世界を護るためだ。
 封印を外さなければ、壊れてしまうから……
 だからこそ、外したくてここにいる。

 でも、もしここだったら?

 海水(かいな)一人に奔走する必要など、ないのだろう。
「滅びたら……どうするんですか?」
「……私たちは死にますね。神ではありませんから」
 淡々と話した。
「でも、神は残されます」
「残った神は――」
「そうですね。狭界にある女華(じょか)様の管理する万神殿に行き、また世界を構築する時期を待ちます」 
 世界の構築を決めるのはやはり六創神(ろくそうしん)だろうか?
「神が一つの場所にたくさんいるのはそこだけです」
「万神殿か――」
「壊れてしまう世界なんてたくさんあるので誰も気にしませんよ?」
「え?」
「気にしない?」
「はい」
 それは三人には理解しがたいことだった。
 世界調整者と世界管理者である三人には。
「それが当たり前なんです」
「壊れても?」
「そうです」
 世界が壊れても、それは管理する神のせいではない。
 住む者の責任だと言われた。
「だから基本的に私たちは神のすることに口を挿む権利などありません」
 どこにいるのも神の自由。
 だから皆一ヶ所に留まらない。
 最低限のケアしかしない。
 見守っているだけかもしれない。
 そう……見ているだけ。
 信じられないことだった。
「ここで貴方方が得られる情報は少ないと思いますよ?」
 そう言いながらも偉い天使に目通りしてくれるという。


 彼女の言葉が真実だったと知るのはこのすぐ後のことだった。