「くっはー! やっと終わったー!!!」
 グラキエースは思いっきり伸びをした。
 この所ずっと制御システムの構築をしていたため身体がバキバキだ。
 だがそれは必要なことだ。
 このシステムがなければ今以上に環境が悪化する。

 今でさえ、微妙なところなのに――

「取り敢えず最悪の状況だけは避けられましたね」
 さすがのアシリエルも疲れたように椅子にもたれている。
 アービトレイアから人手が来たためにかなり楽に制御システムを創ることが出来た。
 しかし、それは三人でやるのに比べれば、ということだ。
 人数が増えても重要な場所は魔王である二人が頑張らなければならない。
「そうだな」
 グラキエースもどかっとソファーに寝っ転がった。
 ここ最近は仕上げの為に睡眠不足が続いた。
 だが、この世界に何かあったらシャレにならない。
 それを考えればこれくらいの苦労は妥協範囲だ。
 いくら怠け癖のある魔王とはいえ一応これでも世界管理者。
 最低限のモラルはある。
「多少被害が起きたようですけどね」
 グレシネークが溜息と共に零した。
 それに反応する二人。
「どんな?」
 二人は制御システムに係りっきりだったため、世間の情報が遮断されていた。
 ぶっちゃけ、余計なことにかまけている暇などなかった。
 だから、今現在、ディヴァイアがどのような状況に陥っているのかは知らない。

「氷河が……ニフルヘイム付近にある氷河が融けて海面が上昇しました」
 そんな二人の為にグレシネークは詳しい説明をした。
 水の神が減少した影響が各地で出ているらしく、水害があちこちで発生しているらしい。
 小さいものではちょっとした津波。
 雨が止まずに降りしきるのはまだ良い方らしい。
 ディヴァイアで最も寒い地方であるニフルヘイム。
 ここの氷河が融け出した。
 それはニフルヘイムでも雪ではなく雨が降り始めたからだ。

 雨は氷河を融かした。

 融けた氷河は海面を上昇させた。
 そのため、小さな島が沈んだ。
 ディヴァイアには大きな大陸しかないわけではない。
 ちゃんと小さな島もある。
 その島が海面上昇によって沈んだ。
 海が荒れたせいで犠牲者も出たという。
 ここまで被害が聞こえてはこないが、かなり酷いことになっているようだ。

「アスガルドでも水が溢れ出して橋の付近まで水が溢れたらしいですよ」

 そのせいで(ゲート)の一部に水が浸水して大変だったらしい。
 天候不順のお陰で余り外出する人がいないことがせめてもの救いらしい。
 これで利用者が多かったら大変だ。

「アスガルドは沈んでないんですか?」
「あの都市は元々水上都市なので」

 街は浮島の上にあるので水面が上昇すると一緒に上昇するらしい。
 そのため、街自体には何の問題も無いらしい。
 水面上昇よりもむしろ雨の方が厄介らしい。

「それに海水が流れ込んで生態系に異常が発生したと聞きました」

 それは大問題だ。
「それは他でも発生していますね」
「でしょうね」
「他の被害は?」
「目立った被害はこれくらいですかね」
 思っていた以上に被害が多い。

「仕方がない……か――」

「そうですね。水の中枢制御システムが破壊されてからもうかなりの時間が経過しています」
 何も無い方がおかしい程の時間が経過してしまっている。

 しかも、今現在、水の最高神は不在だ。
 水の神だけで世界を治めるには数が少なすぎる。
「水の守護天使は?」
「かなり少ないようですが……ランクの低い天使まで含めれば水の神よりは多いですよ。でも――」
 それでも、世界を正常に維持するためには足りない。
「これ以上減ったらさすがにまづいですね」
「水の神と天使には厳重な護衛をつけてある」
「そういえば……そうでしたね」
 確かに優秀だ。
 なんせ、魔界の魔王なのだから。
 何故、魔王が神の護衛をしているのか?
 答えは簡単だ。
 それほど現状は切羽詰まっているということ。

 コンコン。

「はい」
「失礼します」
 ノックをして入って来たのは瀞亜(せあ)慧婁(える)だった。
 慧婁(える)に付き添われている瀞亜(せあ)は以前よりもだいぶ顔色が良くなっている。
 ショッキングなことがあったため、一時期はかなり体調が危ぶまれたが、持ち直したようだ。
「元気そうだな」
「そうですね。仕事も減ってしまいましたから」
 心配した周囲が瀞亜(せあ)の仕事を減らしたのだろう。
 確かに、今ぽっくり逝かれてしまったらまとめる者がいなくなって大変だろう。
 彼が亡くなるのは年齢的に仕方のないことなのだろうが、今は時期が悪すぎる。
「用は制御システムについてか?」
「はい」
 今ここに来る理由は他にないだろう。

「制御システムを起動させます」

「制御システムの警備に関してはベリアルに一任しているはずだが?」
 一番重要な警備はベリアル担当だ。
 ディヴァイアの方はベヒモスとグリンフィールの担当だ。
 それほど制御システムは重要なのだ。
「いえ……お二人は……これが終わったら帰ると聞いていたので――」
 確かにグラキエースとアシリエルはバール=ゼブルに帰って来いと言われているため、これから帰るつもりだ。
「心配しなくてもグレシネークを置いていく。何かあったらコイツに言ってくれればいい」
「はい。私はベリアル様と共に制御システムの護衛を行うことになっているので気軽に尋ねてください」
 もう完成した制御システムだ。
 万が一、何かの不備があったとしてもグレシネークだけでも対処できるだろう。

「いえ、そうではないんです」

 三人は首をひねった。
 制御システムについての心配でなければ、なんだというのか?
 三人には見当もつかない。


「今まで、ありがとうございました」


 瀞亜(せあ)は深々と頭を下げた。
 それを見たグラキエースは首を振った。

「大変なのはこれからだ。そうだろう?」

 まだ危機が去ったわけではない。
「そうですね。でも、貴方方がいなければ……ここに立っていられなかったかもしれませんから」
 だからお礼を言うのだという。
 三人はその礼を受け取ることにした。

「まだ大変だが、頑張ってほしい」
「そうですね。まだ……終わらせられません」

「はい」
 瀞亜(せあ)は力強く頷いた。
「では、な」
「お元気で」
 グラキエースはそう言うと印を組み始めた。

   ……  ε ι ξ γ μ ο χ ξ χ α ξ δ ε ς τ ι ξ ς α υ ν υ ν θ ε ς υ ξ δ φ ε ς μ α σ σ τ ε ι ξ ε σ π υ ς

 (ゲート)のある場所に移動するためだ。
 さすがのグラキエースも(ゲート)が開いたとはいえ、冥界や魔界に直接移動することなんてできない。
   ――空間を渡る道化の軌跡



 二人は一礼してその場から消えた。
「では、行きましょう。私たちは私たちの出来ることをしなければ」

「はい」

 三人は完成したばかりの制御システムに向かった。
 厳重に守られている、あの場所へ――

 これで少しでも世界の状況がよくなってくれればいいと、切に願う。





 グラキエースとアシリエルは冥界への(ゲート)のある場所に転移した。
 そこはすでにアスモデウスの部下で固められていた。
 ビシッと敬礼される。
 アスモデウスの部下はアスモデウスと違って礼儀正しい。
 その門は今は開いている。
 自由に行き来が出来る状態だ。
 その(ゲート)を感慨深げに見つめるグラキエース。
 グラキエースがこの(ゲート)を見るのは、(ゲート)が閉まった時以来である。

「懐かしいな……」
「グラキエース……」

 じっと見つめるグラキエースの表情からは、何を思っているのかはわからない。

「この(ゲート)がしまった時……もう二度とこの扉を見ることはないだろうと思っていた」

 それは、そうだ。
 かつての冥王ノーンハスヤはこの世界を護るために(ゲート)を閉じた。
 それが再び開かれることになるとは、思ってもみなかっただろう。

「オレはこのディヴァイアで一生を終えると、思っていた」

 寿命というものがない魔皇(まこう)族でも、死ぬことはある。
 平和に何事もなく過ぎ去れば、けしてこの(ゲート)は開かなかった。
 それは、二度と故郷を見ることが出来ないのと同義だ。

「また再びアービトレイアに帰ってこれるなんて……」

 良いことなどほとんどなかった。
 一日中夜の世界。
 その世界は弱肉強食。
 治安は最悪だった。

 それでも……
 それでも……グラキエースの故郷は監視世界アービトレイアの魔界なのだ。

「行こう」
「ええ」

 懐かしそうに(ゲート)を見つめるグラキエースにアシリエルは何も言うことが出来なかった。
 ずっとアービトレイアでしか生活してこなかったアシリエルに故郷を断つことになったグラキエースの気持ちなど、わかるはずがない。
 真っすぐに(ゲート)に向かうグラキエースの後に着いていくことしか出来なかった。



 そして(ゲート)を抜けた。

 昼間なのに漆黒の闇に迎えられた。

 ひんやりとした空気が流れ込む。

 全てが懐かしかった……

 グラキエースは目を細めた。



 帰って来た。


 故郷へ――


 二度と帰ることのないと思っていた場所へ――


「グラキエース……」
 アシリエルはとても複雑そうな表情で彼を見つめた。

「アシリエル」
「はい」

「悪いがアスフォデル城へ案内してくれないか?」
 もう覚えていないのだと、グラキエースは苦笑した。
 アシリエルには、わからなかった。
 はたして、自分も同じ状況に陥った場合、同じように笑えるだろうか

「はい」

 アシリエルはグラキエースを連れてアスフォデルへ向かった。
 バール=ゼブルのいる、アスフォデル城へ――